以前の理不尽な出来事の時に感じた事や思いは、その時にすべて跡形もなく消え去っているのが、事実です。

 

 

 

今の目の前の事実の様子には、

その時の理不尽な出来事はありませんが、

 

 

 

 

 

「今、このようになってしまったのは、

あの時の理不尽な出来事のせいだ」

 

 

 

 

「あの時の理不尽な出来事のせいで、今、こんなふうになってしまっている」

と、

 

 

 

 

時間が連続していて、

原因と結果が別々になっていると思っていて、

 

 

 

 

今の目の前の事実の様子に、

後追いの記憶の認識で

理不尽な出来事を重ねて

考えで結びつけてしまっていて、

 

 

 

思いの中に深く入り込んでしまっていて、

 

 

 

 

今をあるがままに、

目の前の事実の様子を見れなくなってしまっているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時間は概念であり、

生じては滅しており、

連続的に

過去から未来へと続いているのではありません。

 

 

 

 

 

 

人は因果の法則に縛られていますが、

 

 

 

原因と結果と云うのは、

クルマが通りかかったら、

同時瞬間に

ブーンと聞こえてしまっているように、

別々にあるのではありません。

 

 

 

 

 

 

理不尽な出来事も、

その時に、

その場で終わっているのが事実です。

 

 

 

 

 

 

ですが、

後追いの曖昧な記憶の認識、考えで、

今の事実の様子に理不尽な出来事を結びつけてしまっていて、

 

 

後追いの記憶の思いに深く入り込んで

錯覚に囚われていて、

余計に自縄自縛で苦しんでいるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

非二元、ノンデュアリティの人間達は、以前の理不尽な出来事を

 

 

「全てはストーリー」

と話し、なかった事にしようとしたりします。

 

 

 

 

ですが、

実際に、以前に起きた出来事は、

なかった事にはできません。

 

 

 

 

 

 

理不尽な出来事は、

今の事実の様子として、すでに跡形もなく滅して過ぎ去っています。

 

 

 

 

ですが、

理不尽な出来事は、

曖昧な記憶の思いと言う、蜃気楼としてあたかも実在しているかのように、

事実ではないですが、

 

錯覚、思い込みとして続いてしまっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

人は、

理不尽な出来事、

思い込みに縛られて苦しんでいて、 

忘れたいと願っていますが、

 

 

 

 

何かしらのメソッドや考えや観念を持ってして、

忘れよう、

手放そう、

どうにかしようとすればするほど、

 

理不尽な出来事の記憶の思いの中で輪廻する事がより深くなってしまい、

苦しみや生き辛さが増してしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心の作用とは、

どうにかしようと奮闘すればするほど、

余計にそのことに囚われてしまい、どうにもならなく、逆に余計に苦しくなってしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前の理不尽な出来事は、

何かしらのメソッドや、考えや思いを持ってして、どうにかしようとすればするほど、心の反作用で余計に苦しくなるし、

 

 

 

以前の理不尽な出来事は、

事実ではない、思い込みですが、

 

 

 

「全てはストーリー」だと言って、

今の事実の様子としてすでに流れ去っていますが、

なかった事には出来ません。

 

 

 

 

 

 

 

メソッドや考えや観念を持ってして解消する事はできませんし、

以前の理不尽な出来事を言い聞かせたりして、

なかった事にしようとすればするほど、

余計に苦しくなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ですから、

ブッダが2500年前に菩提樹の下で坐った、正しい実践なき実践にて、根本から解消し、自分自身を救うのです。