悟りの実践の指導をしている者で、
自分と向き合って気づきや智慧、
何かしらの理想的なものを得ようとやっている指導者は、
ブッダが2500年前に示した本物の悟りではない。
180度真逆であり、
その向き合って都合の良いものを求め得ようとしている実体なき観念そのものが、
消滅すべき自己なのである。
悟りに
一定の無我の境地だとか、
悟りの境地などはありません。
正真正銘の本物の悟りと云うものは、
状態や境地ではなく、
深まったり
定着したりするものではありません。
定着するとか深まるなどと指導している指導者は、
皆、本物を体現していない、
似非悟り者です。
判ったつもりになっているだけで、
本当の事は何も判っていないのです。
悟りとは、
どんなに石を磨いても
石はゴツゴツしたままのように、
ブッダの本当の悟り、解脱ではない仏教が言わんとしている考え上の観念の世界、
考えと言葉で定義されている世界から完全に離れた、真逆の道であって、
これから知識を身につけて、
学んで、
努力して上手になって、
難行、苦行を積み重ねた先に
至るものではありません。
「清にあらず 濁にもあらず」
「浅きや深きにもあらず」