本当にお釈迦さんの悟り、解脱の体現に与ったのならば、
「清にもあらず濁にもあらず、浅きにも深きにもあらず」
と云った事がハッキリとし、
完全に決着すれば、悟る以前には決して戻らない事が明白になっているため、悟後の修行などと世間で云われている事が嘘である事を識っています。
社会生活を送るには認識が必要です。
悟り、禅の事実ではありませんが、便宜上、自分の眼鏡だ、自分のペンだ、バッグなどと、あたかも自他が分れている対象物として相手には説明をします。
80億人のほとんどが
「自分が存在している。」
そして、
「自分と自分以外の他がある!」
そうでしかない、それが常識であると、
認め思い込んでしまっているからです。
社会生活の中で、人の話している事には人間的見解がいっさいついていないからと言って、話しかけられても黙っていたらおかしいですよね(笑)
相手と言うのは、本当は自分自身そのものでしかないのですが、
社会生活上、あたかも分離している架空の相手として立てて、用事が済んだら、意図せずとも自然と架空の相手を立てる事が止むので、悟りの修行の仏果として、もともと実体のない考え上の架空の自己もすぐに消え失せるのです。
そういった社会生活における観念・概念上における事実ではない架空の世界観と、悟り、禅の認識以前の今の現実の事実の様子のキワがハッキリと明確なままで生活する事になるのです。
完全に決着がついた者達は、悟後の修行などはない!とハッキリしていつつも、聖胎長養の実践を、釈尊の如来禅の実践をそのまま継続します。
それは、事実ではない言葉、考え、概念上の世界観と、悟り、禅の認識以前の今の現実の事実の様子のキワをハッキリと明確なままに保つ事に寄与しているのでしょう。
下の御二方は、臨済宗の管長と、曹洞宗を代表する坊さんで、本や講演で精力的に活動されていて、世間もこの二人は悟った者だと思い込んでいますが、話しの内容や実践の方法からして、明らかに悟っていません。
日本の平安時代から、この世は末法(正真正銘の悟りが輝きを失い、釈尊の真の悟りではない、偽物の悟りが悟りであると思い込まれ、世間に蔓延する)の時代に入っていると云われた迷信がありますが、それが本当に現実になってしまっています。
そこの有名な悟ったと思い込んでいる御二方、
悟後の修行など、本当の悟り、解脱の体現に与れば、そんなものは一切真実ではないと言う事がハッキリしますよ。
そして、
本当に完全に決着してハッキリしたのであれば、
この御二方とは違っていて、
「坐禅をしたら、いっさい坐禅をしない」
のです。