お釈迦さんの真の悟り、解脱に段階はありません。
ですから、
かの有名な十牛図は、
解脱の体現に与っていない者が
考えでこしらえた、でっち上げの創作となります。
悟り、解脱に段階はありませんが、
お釈迦さんもおそらく何度も体験されたかもしれない、
禅で云われているところの見性、一瞥
非二元・ノンデュアリティで言われているような、
「目の前の全てのモノや環境と一つになった」
そのような体験があります。
ブッダの真の坐禅の実践においても
完全に認識が落ち切らずに
「目の前の全てのモノや環境と一つになった」
そのような体験が起きてしまう事も想定されます。
その体験は確かに素晴らしいものではあります。
ですが、
いまだ認識が完全に落ち切っておらず、
体験した自分、非日常的な何かを観ている人が
リンゴの芯のように固く残ってしまって居ており、
それはお釈迦さんの自覚した本来の解脱ではなく、
いまだ、本分でしかない道なかばでしかないのです。
体験せずに、一度で認識が完全に落ち切ればいいのですが、
このようなものは、何とか出来るものではないのです。
非日常的な何かを観ている自分、体験した人が残ってしまった。
そうであるならば、
そこからが本当の修行なのです。
大抵の者達は本来まで開かずに
本分で止まってしまっていて、
体験したものを固定観念として新たに握りしめ執着し、
無条件の愛や幸せなどと説いている西洋の覚者だと言われている者達や、インドに代表される真我、静寂、平和、気づきなどと言われている東洋の覚者に顕著に見られる様になります。
あのような覚者と呼ばれている者達が悟り、解脱だと思い込んでいて、悟りだと称しているモノは本分の道なかばか、悟りぞこねか、悟りとは全く違うものなのです。
ですから、
覚者などと呼ばれている者達はハッキリしていないため、
悟り、解脱を言葉を用いずに端的に指し示す事が出来ないのです。
本物の覚者は、生まれたての赤ちゃんです。
認識が完全に落ち切らずに
非日常的な何かを体験してしまった、
体験して観ている人が残ってしまったならば、
そこからが本当の修行なのです。
体験して観た人を
落として行く実践が必要になってきます。
瞑想や世間一般の坐禅の実践だと、
どんなに実践をしても
体験して観ている人が完全に落ち切る事が不可能なため、
ですから、180度真逆の道である
観察、観照しない
お釈迦さんの真の坐禅の実践が不可欠になってくるのです。
中村幸ム