ブッダの真の悟り、解脱において、

昔の祖師方の中には、

 

 

 

 

 

参禅者に

「人なんか存在していない」

「自分なんて存在していない」

と言って、

殴り飛ばしてから、

殴り倒してから、

それから

坐禅をさせていた経緯がある。

 

 

 

 

 

もちろん

殴り飛ばされて

痛いと思うし、

怒りを感じることもあるであろう。

 

 

 

 

 

痛い。

 

 

 

 

痛いけど、

ただ、

私が痛いのではない。

 

 

 

 

 

 

私が痛い

と言うのは、

叩かれた後からの考え方で

言葉で意味付け説明している

実体のない

人間的考え方そのものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

痛い

という思いは

その時の今の事実の様子として

浮かんでくるけど、

私が存在していて痛いのではなく、

 

 

 

 

 

痛さを味わっている

固定的な自分

固定的な人は

もともとすでに実在していなく、

実体がなく

身体の中に存在していない。

 

 

 

痛みは対象ではなく、痛みそのものになってしまっているのです。

 

 

 

痛みそのもの自体になってしまっていて、対象として考えで扱い、どうにかしようと考えで図らい続けるから、余計に痛みが増幅して助長されて感じられるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怒りは自然と起きるけど、

怒っている

固定的な私

固定的な人は

もともとすでに存在していない。

身体の中に人は実在していない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「存在している」

「私が生きている」

と、

言葉であとから説明した

後追いの考え方による

錯覚がもたらす、

 

 

自分が存在していて、

自分以外のまわりが存在している

そのような観念がもたらす、

 

 

 

現実の今の事実の様子ではない、

実体のない自他分離対象感に囚われ、

80億人のほとんどが迷妄し、彷徨っているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

80億人のすべてが

現実の今の事実の様子として、

無我無心であり、

無生で生まれてもなく、

生きてるとか、生きていないとかではなく、

もともと永遠に

鼻っから、物理的に実体がなく、

もとから実在していないのである。