自分、私には、人間には、

自由意志があるとか、

自由意志がないとか、

 

 

 

そんなことを問題視して

言葉と考えで構築されている概念、

思いの世界に深く入り込んでいくから、

迷いや妄念がより膨らんで苦悩するのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

身体に自然に起きている

眼・耳・鼻・舌・身・意の

六根の働きを、

考えが自然と働いて

色々と自然と働いている機能を

 

 

 

身体の感覚や五感に意識を向けてみたり、

意図して観察、観照しようとしたりと、

 

 

 

自分の行為、行動、

思いや考え、感情、感覚を振り返って、

自分の事を振り返って問題だとして考えで取り上げ扱い、

反省して自分を問題視し続けたりと、

 

 

 

 

そのような、

意図して作為し、何かしようとして振り返って、

自分の行為を反省し振り返って

私には自由意志があるとか、

自分には自由意志がないとか、

振り返り続けて問題視している者こそ、

 

 

 

仏道で滅ぼすべき物理的に実体のない

考え上の架空の自己、私、自分なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自由意志があるとか、ないとか、

そうやって

私・自分・自己を問題視し続けているからこそ、

言葉と考えで構築されている、

迷いの観念・概念世界に深く入り込んで行き、

迷い苦悩するのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

完全に決着がつきハッキリすると、

自由意志があるとか、ないとか

ゴニョゴニョと問題視し、

周りの者や世間に風潮して言っていた

実体のない考え上の私・自分・自己などと言う

錯覚の概念が身体側から消え去り、

 

 

 

絶対に悟り、解脱前には二度と戻らなくなり、

2つに分かれっぱなしだったのが、

もともとの本来の1つに戻るのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分、私、自己を問題として取り上げ、

自由意志があるとか、自由意志ないとか、

全ては全自動でただ起きているだけとか、

 

 

 

その

ゴニョゴニョと言っていた

実体のない私・自分・自己などと言うものが、

ブッダの悟り・解脱の体現に与る、

認識が完全に死に切ってしまうと、

私・自分・自己の錯覚が完全に消え去ります。

 

 

 

そうすると、

もともとすでに

現実に今、無我無心であるとハッキリして、

 

 

もともとの、

何もかも固定して実体があるようで実体がないという

フィーリングに戻るので、

 

 

 

 

 

そもそも

自由意志があるとかないとか、

(すでに今、無我無心で私は存在していなのだから、

あるとかないとかが、もともとない)

 

 

 

 

全ては全自動でただ起きているだけだとか、

(そんな事を言っている固定的な私は、

身体の中に、現実に今も鼻っから実在していない)

 

 

 

 

言葉で概念化して

掴むこと自体がそもそもおかしいし、

それが迷いの元だし、

 

 

 

そんな観念知識で

考え方で追及しようするから、

人間の本質である

ブッダの真の悟り、解脱からますます遠ざかるのだ。

そのことがハッキリするのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここまで書いたこのような事柄に

悟りの探究者達は嵌って陥っており、

苦悩し彷徨い迷っておるのです。