瞑想や

世間一般の坐禅を指導している者は、

認識が完全に死に切ったところ(解脱)まで

逝っておらず、

完全にハッキリと決着がついていません。

 

 

 

 

 

 

 

みなさんが知っているような

世間一般人だと、

 

阿部敏郎

雲黒齋

小出瑶子

安達正純

 

 

坊さんだと、

 

鈴木俊隆

横田南嶺

藤田一照

小池龍之介

松本紹圭

向令孝

 

 

 

 

 

このあたりはかつて、

自身が完全にハッキリしていない時に

ブッダの悟りだと思い込んでいて、

よく話しなどを聞いていましたが、

今では、

ブッダの悟り、解脱ではない事が完全にハッキリしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼らは、

動画で定期的に悟りのようなものを話していますが、

一部事実に触れているところもありますが、

内容がブッダの真の悟り、解脱とは違います。

 

 

 

 

 

 

 

 

完全にハッキリしているなら、

言葉で長々と説明を用いず

その場で端的に

悟りの概念的事実を指し示すことが出来るはずですが、

彼ら、彼女らは完全にハッキリしていないため、

指し示すことが出来ていません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉などそんなに必要ないし、

そもそも観念知識などいっさい必要ないものを

動画など1本録れば十分であるのに、

それなのに、

悟りを求めている方々に

ブッダの悟りの概念的理解も

ハッキリ出来ていない内容の話しを、

ブッダの悟りでもなんでもないものを

何十本も何百本も動画などでべらべらしゃべっており、

 

 

 

 

ブッダの悟りを本気で求めて彷徨っている方々に

さらなる観念知識をたくさん植え付けて

固定観念化させ、

ブッダの悟り、解脱からどんどん遠ざけることをやっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、

彼ら、彼女らは実践として大抵、

瞑想や世間一般の坐禅の実践を指導していますが、

完全に決着がついてハッキリしていないから、

瞑想や世間一般の坐禅を指導しているのです。

 

 

 

 

 

 

瞑想や世間一般の坐禅と、

ブッダが菩提樹の下で実践していた真の坐禅は

180度真逆であり、

道がまったく違うものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

ですから、

瞑想や世間一般の坐禅の実践をしても、

完全に決着しません。

せいぜいよくて、

ブッダの真の悟り、解脱とは全く違う

非二元、ノンデュアリティの体験止まりにしかなりません。

 

 

 

 

 

 

 

なぜ、

瞑想や世間一般の坐禅を否定するのかと言うと、

認識が完全に死に切らず、

 

 

観ている私

 

 

が残ってしまうからです。

 

 

 

 

 

 

その結果、

彼らの言っている見性は、

ブッダの真の見性ではなく、

純粋意識や

根源などと呼ばれる

宇宙の真相でもなんでもないものを夢見し、

観念そのものが観たいように観ている

迷妄の世界観にいまだにあるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

余計なお世話だが、

阿部敏郎や向令孝などは高齢だと思われ、

完全に決着がついていないままなのに、

何十年もブッダの真の悟りだと思い込んで

世間に偽物を風潮して指導していて、

彼らは残りの人生もそんなにないわけだから、

瞑想や世間一般の坐禅と180度真逆である

ブッダの真の坐禅修行に打ち込み、

しっかり決着をつけて自身が完全にハッキリしてから、

それから、

今までお世話になったみんなに詫びを入れて、

それからまた指導にあたればと、

そのように思います。

 

 

 

 

 

詫びを入れ、

今まで悟りぞこねだったと認める。

そのほうが数百倍、

恰好が良い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瞑想や世間一般の坐禅、

祈りや内観、

そのような実践指導をしている者達は、

ブッダの真の悟り、解脱ではない

似て非なる

似非悟りだと

ハッキリそう断定して頂いて結構です。

 

 

 

 

 

 

瞑想や世間一般の坐禅だと

 

 

思い

 

 

が気になるなるはずです。

ですが、

思いなんていっさいありません。

 

 

 

 

 

あとから掴んで

振り返って反省して、

思いが湧いている

と思い込んでいるだけなのです。

 

 

 

 

 

思っている今の事実の様子にある時、

私が今思っているとか、

思っている最中だとか

思いが湧いているとか、

いっさい思っていませんね。

だから、

思いなんていっさいありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑念を払拭しようと、

瞑想者や

世間一般の坐禅の実践をやっている者達は

奮闘しています。

 

 

 

 

 

雑念などありません。

 

 

 

 

 

あした、何食べようかなぁ

 

 

その時の今の事実の様子として、

将来の事を今思った。

 

 

 

 

それは雑念でも

なんでもありませんね。

 

 

 

 

 

 

 

瞑想者や世間一般の坐禅の実践者は大抵、

過去、現在(今)、未来の

時間の概念を手放すことを意図していて、

将来のことを考えないように実践している者が多いですが、

完全に見誤っています。

間違いです。

 

 

 

 

禅の今は、

過去、現在、未来の現在(今)

を指し示しているのではありません。

 

 

 

 

 

思い、考えは

過去か未来どちらかです。

 

 

 

 

禅の今は、

過去の事を今思った。

未来の事を今考えた。

 

 

 

 

そのことが

今しかないと言うことであり、

瞑想者や世間一般の坐禅や、スピリチュアル、

非二元、ノンデュアリティの多くの者が言っている、

時間の概念における今とは、

質が全く違うものなのです。