お釈迦さんが入滅した後、豪華絢爛な建物を建造したり、毎日飲めや歌えやの酒池肉林のお祭りのような日々を維持したいがために、
自分達のお寺にたくさんお金と富を集めるのが目的で、神社仏閣に興味・関心を抱かせるため、お釈迦さんを神様のように神格化し、無条件の慈愛溢れる絶対に怒らないような存在にしたてあげた。
そして、難行、苦行を重ねれば、お釈迦さんのような聖人君主になれ、幸福に生きられると世間、大衆に嘘の情報と知識を風潮し、たくさんの一般人を集めた。
これを所有すれば魔を寄せ付けず幸せになれるとし、偽物の値段のつかないただ同然の壺を破格の値段で買わせたり、
全種類の御守りを集めればお釈迦さんのように立派になれる、神仏から愛されると嘘をでっち上げ、あなたには邪気が憑いているとでっち上げ、高額で神社にてお祓いをさせるように強要した。
神社仏閣を営んでいる人間達の元にたくさんの富が入ってくるように、まことしやかに本当の事であるかのように、嘘の話しをたくさん作り、世間一般の人々を怖れさせ、このままでは不幸になると思わせ、たくさんの物品を購入させていた。
素晴らしい戒名をつけないと地獄に落ちると集まったたくさんの人たちに怖れを与えて、死にそうになっている人まで怖れさせ、死ぬ間際の人間からもたくさんのお金と富を巻き上げていった。
そのような時代の中、
神社の営みはあまり芳しくなかったが、私利私欲にいっさい流されず、お釈迦さんが存命している時から長年、お釈迦さん真の悟り、解脱の正しい概念的理解と、そのための秘伝の実践をかたくなに守り、時代がどんなに変わっても代々正しく受け継ぎ、
そのお釈迦さん真の悟りの体得を望む世間一般の大衆にも、惜しげもなく門戸を開いているとある神社があった。
その神社は、私利私欲まみれの神社仏閣を営んでいる人間達や、搾取されている一般人の在りよう比べ、おだやかで、お金もあまりなく、豪華絢爛のお祭り騒ぎも出来る余裕もなかったが、
そこの環境は愛、感謝、やさしさ、思いやり、慈しみ、助け合いの精神で溢れており、お釈迦さんの悟りがなんなのかを良く分からない人でも、なぜだか自然と安らぎと穏やかな幸福感に包まれるのであった。
そんな折、お釈迦さんの真の悟りのための正しい概念的理解と実践方法を伝え続けていた神社の主が入滅し、後継者を決める事になった。
片方は才色兼備で大衆の多くからも愛されていた人間であった。後継者を決める席で彼は立候補し、質問者に答えた。
「常にネガティヴな思いや考えが湧いてこないように努め、そのために瞑想をし、心を無色透明の鏡のようにし、
自分を観察して見つめ、内観する事に努め、明鏡止水の如く、いつも心を明鏡に磨く事が大切です」と答えた。
彼が後継者にふさわしい。弟子たちも世間一般の大衆のほとんどもそう思った。
立候補していない弟子たちすべてに質問した。
その中で普段から大人しめで、あまり目立たないものがいた、彼は質問に答えた。
「私の心はネガティヴで、ありもしない妄想、思い、考え,欲望、怒りが長年修行したにもかかわらず、たくさん湧いてきます。
いくら修行しても私の心はダイヤモンドのようにはならず、少しマシになったとしても、すぐにそこらへんに転がっている石ころのような心に戻ってしまい、修行の途中で湧いてくる思いをどうにかするのを諦めてしまいました。
私の心は今も妄想、欲望、貪り、怒りまみれですが、この事に対して良い悪いと判断して、今は一切問題だとは思えず、どうにかして邪淫な思いが湧いてこないようにしようとする欲が完全に失せてしまっています。」
才色兼備で大衆の多くからも愛されていた人間が神社の後継者になると誰しもが思っていた中、
それを聞いた、お釈迦さんの真の悟り、解脱の体現を完全に識っている質問者は、人気もなく、あまり目立たない者を神社の後継者に指名したのである。
自分を見つめ、自分の心を内観、観察し、
湧いている思いや考え、感情、感覚をダメ・悪い・イケないと考えで判断し、
瞑想や座禅や祈りなどの実践にて、明鏡な鏡のようになるようにとコントロールをして作為して理想的なモノを求め得ようと企んで、自分を見つめて問題にして観ているモノこそ、お釈迦さんが説いている実体のない実在していない迷妄そのものの自己、消滅させるべき自己なのである。
思い、感情、感覚が雲であるとするならば、
それらを静寂的な空の意識などと言って、二つに分かれて観ていると、観照していると思い込んでいるモノこそが、もっと非常に厄介な大きな雲であり、
仏教に出てくる、
「貪(とん)」は貪(むさぼ)る心、欲望。
「瞋(じん)」怒り。
「痴(ち)」は愚痴、無知。
など、
宇宙のチリの一部として、生じては跡形もなく滅して流れ去る思いや考えや感情や感覚を、
良い悪い、
好き嫌い
と言って、問題にして取り上げ、
湧いてこないようになどと、どうにかしようと創意工夫して悪戦苦闘するモノこそが、
それこそが
仏陀が指し示している消滅させるべき自己なのである。