独り善がりだ、と言われるかも知れないことを承知で。
地下鉄サリン事件の日、アタシ達は築地の病院より退院する身内を迎えに行くため、日比谷線を使うはずでした。家を出よう、という時になって退院が1日延期になったと病院から電話をもらい、一度荷物をほどきお茶を飲みながらTVをつけると、あの映像が飛び込んできたのです。
もし病院へ向かっていたとしたらちょうどアタシ達は霞ヶ関駅を通過するかしないか、という時刻でした。
ロンドン滞在中は、パディントン駅で列車事故があり、アパートメントの至近距離の病院へ被害にあった方が大勢搬送されてきました。何事かと見ているまだ英語力の乏しいアタシに、近所のおばさんが一生懸命に事故についての説明をしてくれました。
何年か経った日、その日は朝ロンドンから電話があったり、前日に着たコートのポケットに定期券を忘れ一度家に戻ったりと、妙に出足が悪かったのです。駅に到着し、走れば普段の、中目黒駅で地下鉄に接続する電車に乗ることができたのですが、なんだかめんどくさくなってしまい、1本遅らせました。
いつもの電車のいつもの車両、いつもの乗車位置、それは日比谷線事故の該当車両でした。
1本遅らせた電車は時々停車しつつ中目黒駅につくと、一度だけドアが開きました。けたたましいサイレン、青いビニールを持って走る人、「女子供は見るな!」と叫ぶ中年の男性。車内はシンとしていました。
何十分経ったのかわかりませんが、アタシの乗車する日比谷線直通電車は進路を変え、渋谷に向け歩くようなスピードで発車しました。
進行方向右に潰れたティッシュボックスのようになった車両がこちら側にパックリと口を開けています。床だった部分には血と、洗浄に使ったのでしょうか、水と、グラビアアイドルが微笑む週刊誌の中吊り広告が散乱し、数分前まで椅子だった部分はぐにゃりと外にはみ出していました。
混雑した車内でしたが、それを見てしまう窓を向いている人は誰も声をださず、女の人の「ヒッ!」と息を呑む音だけがあちこちから聞こえてきました。
アタシは、瞬きすることができず、まるで皮膚の表面に神経が全部出てしまったような感覚で事故車両を見続けました。
そして昨年、アタシの誕生日でもある4月25日、尼崎での脱線事故により多くの人が亡くなりました。
大事故だ、と思いつつもどこかで「尼崎って行ったことあったけな?」などと考えつつニュースを聞きながらその日の仕事を終え帰宅。
TVで事故車両を見た瞬間、自分でも驚くほどの震え、激しい動悸が襲ってきたのです。日比谷線脱線事故の車両を今見たばかりのことのように鮮明に思い出しました。
尼崎の列車脱線事故については、JRの体制・慣習の責任、運転手の資質か、車両の不具合か、などとマスコミも様々な特集を組んでいます。
未来の犠牲者をださない為にも事故原因の解明と情報の開示、そして迅速な対処を切望します。
しかし、「いつも」を運んでいるはずの電車に乗った被害者とその遺族にとって一番返してもらいたいであろう「いつも」は二度と、決して戻ってはこないのです。
事故・事件の瞬間、被害に遭った方々がどんなに怖かったか、どんなに理不尽に思ったか、想像してもアタシはそこに近づくことさえできませんが、日常生活においても自分自身が加害者にならぬよう、安全を人任せにせぬよう、折に触れ事故を思い出し続けようと思います。
被害者の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。