こんにちは。


今日は昨日に引き続き、

寺社建築の懸魚について綴りたいと思います。


特に、懸魚の名称における時代と変遷です。


まずは、日本において


飛鳥時代(592-710) 天寿曼荼羅繍帳が、猪の目模様を有する

             (天寿曼荼羅繍帳 http://chuguji.jp/about/index.html

             玉虫厨子が、懸魚を支えたと思われる支承物を有する

             (玉虫厨子 http://www.horyuji.asia/entry9.html

             懸魚に関する文字や記録など実例は僕自身まだ見つけることができなかったが、それの類似・原型物や支承品などが推測されているということが分かった。


奈良時代(710-794) 実例等記録を見つけることができなかった。


平安時代(794-1185) 「倭名類聚抄」において、「懸魚顔之推詩云」という記録を有する

              「今昔物語」において、「懸魚(中略)皆吉ク造タリ」という記録を有する

              時代として、猪の目懸魚が流行する


鎌倉時代(1192-1333) 鰭の導入

               三ツ花鏑懸魚の普及

               魚尾形懸魚の創始

               懸魚の例が豊富になり、重要建築物には必ず用いられていたと考えられている


室町時代(1338-1573) 「下學集」において、「懸魚」の文字の記録を有する

               「壒嚢抄」において、「内裏ノ御大工・・・懸魚」という記録を有する

               この時代は意匠の多様性を特徴としていると言われている


安土桃山時代(1573-1603) 懸魚の覆輪(技法)が流行

                  装飾という分野において、地方的差異を克服、京都を中心として中央文化に統一する傾向を有していた

                  中央文化として、室町時代に盛んであった北山文化や東山文化、いわゆる室町文化が各地に踏襲されていったのではないかと考えた。またその背景には戦国時代における、威厳などを示すための意匠なども取り入れられていたのではないかと推測する。


江戸時代(1603-1868) 「和漢三才図絵」において、「按懸魚作魚尾形以隠棟桁端、水物防火乎」という記録を有する

               「家屋雑考」において、「近頃禁民家置之(但以簡易者、置之呼日桁端隠耳)」という記録を有する

               「紙上蜃氣」において、「玄魚又伝懸魚」という記録を有する

               雁股懸魚、二重懸魚、貝頭懸魚、雲懸魚、浪懸魚、雲鰭、若葉鰭などの拙い懸魚が数多出現したとされている

               日本においては、江戸時代でようやく懸魚以外の様々な呼び方をされ始めたということが今のところ理解できる。               



次に、中国において(一部)


唐(618-690,705-907) 「唐会要」において、「非常参官不得・・・施懸魚」という記録を有する

              渤海の東京城趾より、三ツ花懸魚とおぼしき断片が発見されている


遼(916-1125) 大同下華厳寺薄伽教蔵内壁藏に懸魚を有していた


宋(960-1279) 「造営方式」において、「凡垂魚施之於搏風版合劣之下」、「惹草施於搏風版中下搏水之外」という記録を有する

          「文姫帰漢図」において、垂魚、懸魚、惹魚という記録を有するとされている

          懸魚の源流とされている中国では、日本より早い段階で懸魚以外の様々な呼び方がされていることが分かる。また、蓮の葉など水に関わるものであれば、懸魚の代用(?)ができていたことも理解できる。さらには、垂魚という呼び方において、垂直に魚が懸けられるということが見てとれる。



ただしこれらの、懸魚、またはそれに類する文字の記録が現在の懸魚を示しているかは、その文書を読まなくては明らかとは言えないと感じた。

今後、この書物を読んでいき、当時の懸魚に対する思想やそれ自身のあり方を学んでいきたいと考えている。



今回は、日本と中国における懸魚という文字・それに類するものを挙げました。

次回は、寺社巡りや懸魚の種類・分類について綴っていきたいと思います。


それでは(・∀・)