それは昔、京都の下京に、貧しい夫婦がおりました。
貧しいながらも幸せな日々。
そんな日が続いていたある日のこと、夫が唐突に、妻に言いました。
「すまん、わしと別れてくれ」
あまりに突然のことで、妻が状況を飲み込めずにいるまま、夫は家を出て行ってしまいました。
実はこの時、夫はすでに他の女に心を移し、その女と一緒になることを決めていたのです。
それを知った妻は激怒しました。
「おのれ、絶対に許さないから・・・」
とはいえ、一人ではどうすることもできない上に、夫の居場所も分からない。
そこで妻は、無念を晴らすため貴船神社に出向き、貴船明神に願をかけたのです。
「そなたの恨み、聞き届けた」
どこからともなく声がしました。その声が続けます。
「赤い布を断ち切り身にまとい、顔には朱を塗り、頭には鉄輪を乗せ、ろうそくに火を灯せ。そなたの願いは叶うであろう」
妻がそのお告げの通りにすると、もやが立ち込め、生きながらにして鬼神の姿(=生霊)となりました。
「これで、あたしの恨みが晴らせる・・・」
妻は恐ろしい笑みを浮かべ、夫への復讐を誓うのでした。
「何か変だ。どうにもおかしい」
嫌な胸騒ぎを覚えた夫は、陰陽師・安部清明(あべのせいめい)の元を訪れました。
そこで夫は重大な事実を知ります。
「あなたの悪夢や体調不良は女の深い恨みから来ているもののようです。なにか心当たりはございませんか?」
あれの仕業だ。間違いない。
夫は確信しました。
「つい先日、元の妻と別れたばかりなんです。わしが一方的にあれとの縁を切ったんです。だからわしはあれに恨まれてる。恨まれても仕方ないんです」
安部清明はさらに深刻な顔で付け加えます。
「大変だ・・・。どうやら、今夜辺り、あなたの先妻があなたの命を奪いにやってくるようです」
それを聞いて夫は青ざめました。
「そんな・・・。なんとかならんのですか!?わしが悪かったとは言え、まだ死にたくないです!」
祈祷を乞う夫に、安部清明は一つのわら人形を取り出しました。
「これをあなたの身代わりにしましょう。うまくいけば、先妻から逃れる事ができるかもしれません」
安部清明は祭壇に、夫の髪の毛を編みこんだわら人形を置きました。
そして来たる丑三つ時。
安部清明と夫が息を殺して見守る中、祭壇の部屋にもやが立ち込め始めました。
「どこだ・・・どこにいる・・・」
妻の声とは思えないおどろおどろしい声が聞こえてきます。
夫はあまりに恐ろしくて、その場から逃げ出してしまいそうでした。
動いてはいけない、と、安部清明が堪えるように言います。
妻の生霊は、祭壇にあるわら人形に気が付きました。
「そこにいたか・・・呪い殺してやる!!」
妻は物凄い勢いでわら人形に駆けて行き、鋭い歯と鋭い爪で人形をズタズタに切り裂きました。
それは、この世の光景とは思えない程、恐ろしいものでした。
妻は夫への憎しみが増すあまり、生霊を越えて、鬼と化していたのです。
ひとしきりわら人形を引き裂いた後、鬼は恨みを果たして気が治まったのか、大人しくなりました。
それを見計らって、安部清明が祈祷を始めます。
「ううう・・・・」
苦しむ鬼に、安部清明がさらに追い討ちをかけるように神力を使うと、鬼は妻の姿に戻りました。
妻は尚もわら人形を掴んで抵抗しますが、最後には力尽きて、人形ごと消えてしまいました。
こうして、安部清明によって、夫は妻の呪いから逃れる事ができたのです。
―――青き葉の 燃え立つほどに思へども 煙たたねば 人は知らずや―――
(青々とした葉が赤い焔をあげるように、胸を焦がすほどあなたををお慕いしているのに、高く高く煙が上がらなければ、あなたはわたしの想いに気付かない)
―完―
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あたしが見た神楽では、夫と安部清明のやりとりが方言丸出しで、観客の笑いを誘っていました(笑)。
その後の鬼妻登場の場面では打って変わって異質で不気味な雰囲気になり、そのメリハリが見所だったりします。
この演目は呪詛をテーマとしているため、明治以来上演を禁じられた時期もあると言われてるんですって(@_@)
上演を控える社中(神楽団体)もあって、保持している社中は多くないそうです。だから、生で見れたのはラッキーだったかも♪
よく、“丑の刻参り”という言葉を聞きますが、貴船神社に由来した言葉だったんですね。
丑の刻参りと言うと、呪いの儀式って感じがしますが、丑の刻に貴船神社に参拝して願いを掛けるのは心願成就の方法であって、呪詛が本来の意味じゃないそうですよ(^∇^)