~個人の意見よりも、「社会通念」を優先する日本社会~
最近では、上野千鶴子東大名誉教授の入学式での祝辞が問題になったことに驚きました。
女子学生に対して、
「 がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っている 」
と語りかける内容のものでしたが、わたしはあの祝辞を卒業生として
「 よく言ってくれた 」
と思いました。
なぜなら、女性の東大教授は数がとても少なく、
そのことを世界的に見て恥ずかしいと思っていたからです。
男性と対等に学問ができる人はたくさんいて、世界的に羽ばたく人もいるのに、
海外から東大には帰ってこれない人も多い。
それを
「 とても残念だな 」
と思っていたのです。
でも、この祝辞についてもまた、聞いた人によっては、
「 自分が女性として扱われなかったことを恨んでいるのだろう 」
「 私は女として得していますけど? 」
といった反論が、女性の側からあったことが興味深かったのでした。
さらに、
「 お祝いの場でそんな表現はどうなの? 」
という意見まで。
これについても、彼女は東大入学式の祝辞は多くの人に聞かれるという前提で表現の場として
使ったわけで、「 そんな意見もあるんだ 」ととても驚きました。
東京大学は良くも悪くも目立つ大学ですし、お祝いなどを言われても、学生の側は食傷気味でしょう。
この批判をした人が学生当人ではなく、父兄だというのも面白く思いました。
いわゆる「社会通念」と個人の意見がぶつかったときに、
「社会通念」を優先すべきという考え方は、日本社会ではやはり根強いものです。
平成が終わる最後の最後でもまだそんな感じで、これは日本という国や社会の根底にある、
本質の一部を垣間見たような気になりました。
わたしはこれを、日本の大衆の反応を示すサンプルとして、
象徴的な例ではないかと考えています。
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