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お城や戦国武将が大好き!

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真田丸ご覧になってますか!



秀吉や家康、そして直江兼続や伊達政宗と
戦国オールスターズの状況に
目が離せない状況になっていますが
着々と信繁の最後の舞台
大坂の陣に近づいていますね。



小田原征伐の主役・北条氏政役の
高島政伸さんの演技が素晴らしかった
ですね。



顔に白粉(おしろい)を塗って
いるシーンは少し不気味だったけど(笑)




今回は、真田丸のキャスト
や予想についてシェアできたらと思います。

それでは、いきましょう!


【名優・丹波哲郎さんの影響について】

ここ数年は、大河ドラマは視聴率的に見れば
低迷傾向だったのですが、
今年の大河は、王道の戦国時代の設定に加え
主人公は、戦国武将で必ずベスト10に入る人気武将・真田信繁(幸村)
ということもあって、ここまでは
視聴率的には
平均視聴率17.7%と
安定して見られています。




そのワケは、
やはり、脚本が三谷幸喜さんで、とても
コミカルのところが、ありながらも
今までにない、視点から描く
戦国武将に興味深々。
例えば、徳川家康(内野聖陽)って
あんなに、心配症だったのかな?と



次に、キャスティングが素晴らしい。
特に、真田信繁の父・昌幸に草刈正雄さんを起用したのが
大正解だったと思います。



若い人は、知らない方もおられると思いますが
草刈正雄さんは、過去のNHK新大型時代劇
『真田太平記』にて
真田信繁役を演じておられます。




この真田太平記は、原作が
鬼平犯科帳などで、知られている池波正太郎先生で
文庫本【新潮文庫】で全12巻もあります。




真田太平記の放送があったのが
昭和60年(1985)なので
約30年前なのですが
その時、真田昌幸を演じていたのが
丹波哲郎さんです。




丹波さんの演技は素晴らしく
草刈正雄さんも
『昌幸と言えば、丹波さんの演技が頭から離れず
なかなか自分が、どう演技すればよいか苦労しました』と
おっしゃっていました。



しかし、脚本を読むなかで
少しづつ、イメージが湧いてきたそうです。



ですが、演技のはしばしに
丹波さんのイメージが残っているのか
例えば、真田昌幸が策を思案中、
よく、右手で胡桃(くるみ)を転がしているシーンが
あるのですが、あれも
30年前に、丹波哲郎さんがやっておられたのを
取り入れたそうです。



なので、年配のかたからすれば
不思議と真田太平記のにおいが感じられますね。



それ以外のかたのキャストも、もちろん
役に嵌っていてこれから、
後半の真田丸にとても、期待しています。




【真田丸のキャストについて】

真田丸は真田幸村という主人公を軸にして
豊臣氏の絶頂期から滅亡までを支え続けたストーリーを描くことになると予想します。




大筋の歴史の事実に基づいてドラマは描かれていますから、
豊臣秀吉の亡くなった後の豊臣側と徳川側の戦に至るまでの経緯を
どのようにして描くのかこれからが楽しみになってきます。

 

真田幸村(信繁)は堺雅人さんが演じています。
この方は天璋院篤姫でも夫役で出ていましたから、
演技力は間違いないですし、



他にも随所にいい俳優さんを揃えていて、
また武田勝頼を平岳太さんが演じていていいキャストを揃えたなと感じました。




特に、武田勝頼が内部の裏切りによって
自刃に追い込まれなければならない所と
真田信繁の武田勝頼を何とか救ってやりたい胸中と
自分の家を織田家から守り抜かねばならない使命を持っていて
なんともやりきれなさが感じられました。
 
 

 また草刈正雄さん演じる真田昌幸もいいですね。
大事なことを決められずくじ引きで決めてしまうシーンもあり、
三谷さんの脚本もすごくコミカルに描いている部分もありました。



草刈正雄さんのゆるーい口調と主人公の信繁の真面目さが
うまく対峙していて戦国時代という厳しい状況に置かれているのを
ついつい忘れてしまい、思わず引き込まれてしまいます。


【真田信繁が託した兄への思い】


また信繁の兄である大泉洋さん演じる真田信幸は
これからどういう兄弟の関係図になっていくか、
気になるところでもあります。

 

なぜなら信幸は徳川方に、信繁は豊臣方につくことになるからです。




また信繁は史実によると我慢強い一面を持ち合わせていたと
信幸の残された書簡に記録されていることから、
また真田家の血筋を絶やさずにどうやったら守れるか
あえて自分は危ない橋を渡り、



兄に生き残ってほしい、
との思いから徳川方につくことを勧めたのだと思います。



 これから真田丸はどうなっていくのか
石田三成演じる山本耕史さんもいい演技と声をしています。



またこの方もNHKの時代劇では綺麗な殺陣を披露していました。



きっと石田三成の最期も華々しく演じ切ると予想できますし、
まだまだいい俳優さんも出てくると思われます。



また松嶋菜々子さんやオダギリジョーさんなども
キャストとしても出てくるのではないかと思われますし、
まだ見ていないという方はオンデマンドでも見られますから、
是非にとすすめたいドラマでもあります。



NHKの大河ドラマは戦国時代の武将を
取り上げるとなかなかいい視聴率をたたき出しています。
 ぜひぜひご覧くださいね



真田丸が始まって
最初に驚いたのが、真田信繁の兄・信幸に『おこう』という正室が
いたとは!



しかも、真田丸では、常に病気がちで
なんだか、負のオーラが一杯で
番組の中でも、昌幸の正室の『薫』(高畑淳子)殿も
 一緒に食事を取るシーンでは
『こっちまで滅入ってくるわ!』と嘆かれる存在です。




ですが、真田家の嫡男・信幸の妻として
何かの役に立ちたいという気持ちが
痛いくらいに、こちらに伝わってきて
そんな『おこう』のけなげさに
心を打たれてしまいました。



そんな、『おこう』さんが
離縁というさらなる試練が襲います。



今回は『おこう』【長野里美】さんの
離縁後、どうなるのか
シェアできたらと思います。

それでは、いきましょう!


【信幸の半生を支えた『おこう』】

個性的な登場人物が多い「真田丸」の中でも、
ひときわ異彩を放っているのが、
真田信之の妻の『おこう』です。




え?印象にありませんか?大泉洋さん演じる真田信之の隣で、
いつもゴホゴホとやっている、




ちょっと年上っぽい女性がいるでしょ?そう、彼女ですよ。




夫と真田家を支える覚悟をもった良妻ですが、
病弱であまり役には立っていません。




本来、嫡男の妻というのは人質にされがちですが、
彼女は病弱なため人質としての価値も認められていません。




だから家の中ではいつも遠慮がちで、控えめにしてるんですね。




モデルになっていると思われるのは、
真田幸綱(真田信繁・信之兄弟の祖父)の長男である信綱の娘です。
簡単に言えば、信之とは従兄弟同士。




歴史上は清音院と呼ばれている女性で、
信之の最初の正室です。




清音院というのは戒名。
信之の正室といえば、有名なのは小松姫(稲)です。




徳川家康の重臣である本多忠勝の娘で、
家康の養女となった後、信之と政略結婚させられます。




信之は立場上、家康の養女を側室にするわけにはいきませんから、
『おこう』は離縁されることになります。




「えっ!ひどい!」「おこうが承知するわけはない!」と、
視聴者は誰もが思ったでしょうが、
当の彼女はあっさりと承知してしまいました。




真田家の役に立ちたいと願い続けてきた彼女にとって、
やっと役に立てる時が来たと、むしろ喜んでいたようにも見えます。



何て健気な女性でしょう!




離縁されたおこうは「真田丸」から姿を消してしまうのか、
と思った視聴者も多かったでしょう。




でも、小松姫が嫁いできてからも、彼女は真田家に留まっています。
なんと侍女として!(実際には「側室に格下げ」ということのようです)




これには驚きましたよね。現代では絶対にあり得ない話です。
しかも真田家の人々も、彼女の気持ちをくんで、
そのまま同じ城に暮らすことを許してるんですから、面白い!


【『真田丸』における『おこう』の成長】

実のところ、おこうに関してはあまり史実として残っている話がありません。




他のドラマでは、信之は小松姫一筋で、
『おこう』は最初から存在しないことになっている場合もあります。



確定しているのは、
信之の嫡男である信吉を1595年に産んでいることです。




小松姫が信之の正室となった年は、1583年、1588年など、諸説あります。


でも、どの説をとっても信吉の誕生は小松姫が来た後です。




つまり、おこうは離縁させられたあとも
信之と夫婦関係があったということです。

良かったですね!




ドラマでも今後、ゴホゴホと咳き込みながらも、
細く長く生きながらえていってくれることは間違いないでしょう。



「真田丸」のクライマックスである大坂夏の陣は1615年ですが、
彼女はその後も生き、1619年に亡くなった【諸説あり】とされています。




『おこう』さんの今後が、ますます楽しみですね(笑)
ではでは。




豊臣秀吉にとっては
数少ない親族でもあり、親友でもあった加藤清正と
共に、秀吉の天下取りに貢献した猛将。



福島正則(ふくしままさのり)



熱い情と激しい闘気を持った
この戦国武将を演じるのは
深水元基(ふかみもとき)さんです。




この猪突猛進タイプの正則は
激情家で感情の起伏がすぐに顔に出る為、
隠し事や謀略には、まったく向かないタイプでした。




ある時、手違いで切腹させた家臣に大泣きして
詫びたという逸話があるくらいで
裏表のない好人物という性格の為、



秀吉や同僚からのウケもよく
面倒見も良かったため家臣からも慕われて
いたそうです。




そんな彼の人柄の良さが
かえって仇(あだ)になるとは……。



今回は福島正則をシェアできたらと思います。



それでは、いきましょう!


【深水元基さんとは?どんな人?】

 真田丸の福島正則役の深水元基(ふかみもとき)さんは、
1980年1月20日生まれで現在36歳、東京都出身です。




身長187㎝とかなり長身で、昭和第一学園高等学校在学中から、
MEN'S NON-NOなどのファッション雑誌のモデルとして活躍していました。




モデル時代は、元樹という芸名で、その後俳優の道に進み、
数多くの映画やテレビドラマなどの出演しています。



俳優業のかたわら、オリジナルブランドmonteeのデザインも手がけています。




趣味は登山とバイク、それに映画鑑賞で、
好きな映画は「ブルース・ブラザーズ」ということです。




自主映画の製作もしていて、2010年にはその映画の試写会もおこなわれたようです。
好きなスポーツは、水泳とバスケットボールだそうです。



2015年に、一般女性と約2年の交際を経て結婚しています。




 映画初出演は2001年ショコキ!で、
その後は2004年の海猿や海猫、2007年のクローズZERO、
2009年のクローズZERO II、2014年のクローズ EXPLODEなど、
話題作に次々と出演しました。




クローズで演じた、鈴蘭史上最強の男、
リンダマンこと林田恵役では強い印象を残しています。




新宿スワンで演じた、スカウト会社の幹部役も衝撃的でした。
 テレビドラマでは2013年の連続テレビ小説 あまちゃんで、
CMプランナーの役を演じています。
それ以外にも数多くの番組のキャストとなっています。




 バラエティー番組にもよく出演しています。
世界ウルルン滞在記や田舎に泊まろう!、
日本の名峰・絶景探訪などで、サラリーマンNEOではレギュラー出演もしています。




 舞台にも2005年からキャストとして出ています。
CMも大塚製薬のカロリーメイトやジョニーウォーカー、
JTのRootsなど数多くに出ています。


【豊臣秀吉の従姉弟】

 真田丸の主要人物である福島正則は、
勇猛果敢な武将として知られていますので、
長身を生かした勇ましい演技が期待されます。




福島正則は豊臣秀吉の叔母の子、つまり秀吉のいとこにあたる人物です。
秀吉は子どもがいなかったため、姉の子供の秀次を世継ぎにしようとしていました。




そのため秀頼誕生に伴い、実質的に殺されてしまったわけですが、
秀次より少し遠い血縁者であった福島正則は、命拾いした面があります。




秀次の運命を見ていて、同じ秀吉の血縁者として
いろいろ葛藤がある役どころですから、どのように演じるのか期待されます。




真田丸は視聴率も高く、人気ドラマとなっていますし、
福島正則の活躍する場面も増えると思いますので
見逃せない人物でもあります。


【豊臣政権の派閥抗争:武断派VS文治派】

天下分け目の戦いと言われる『関ケ原の戦い』[慶長5年(1600)]
があって、天下の主は、東軍の徳川家康が握ることになります。




では、なぜ、関ケ原の戦いが発生したのでしょうか?





この遠因は、秀吉が晩年に
行った朝鮮出兵




いわゆる文禄・慶長の役と言われる戦い
に原因があります。




この戦いは、文禄元年(1592)から始まり
太閤秀吉が亡くなった慶長3年(1598)でようやく
終結を見ましたが




この秀吉が晩年に取り掛かった戦は
そもそもが、日本国内に征伐する対象がいなくなったので
国外へと討ってでるという行為に至ったわけですが




結果的には、多くの人員と経費をかけた割には
得るものは、なく秀吉が築いた豊臣政権の基盤を
揺るがす内部派閥が勃発しただけで、失敗になりました。




その内部派閥とは

戦闘部門を受け持った武断派といわれる武将達と
兵站部門を受け持った文治派といわれる武将達との抗争
になります。





武断派の代表各と言えば、加藤清正で
他には
福島正則・細川忠興・浅野幸長・黒田長政・藤堂高虎・蜂須賀家政

そして
文治派の代表格が石田三成でした。
他には
大谷吉継・小西行長・浅野長政・前田玄以・増田長盛・長束正家




では、この二人は、この文禄・慶長の役が
始まる前から、悪かったのかというと
そういうところはなかったと思うのですが




しかし、天下統一を果たしこれからは、戦の時代ではなく
国内の内政面を充実し誠の意味で中世から近世時代へと移る移行期だったので必然と文治派の武将たちが、力を増してくるわけですが




そんな中でも、石田三成の政権内部での力は
増してくることになります。




それは、大河ドラマ『真田丸』を見れば
わかりますが、常に秀吉のすぐ側に仕えて
秀吉の命令や遂行に当たって
仕える三成は、天下人・秀吉の力がうしろ盾となって
いるので、

必然的に三成の気持ち一つで
どうにでもなるわけで、
三成に対して、『偉そうにしやがって!』みたいな
気持ちを持つ同僚の妬みを買いやすい立場だったわけです。




三成は、秀吉を絶対神のようにあがめて
いかに、秀吉政権を盤石にしていくかだけを
考えていて【太閤検地は主に三成が主導】、
そこに私事の私情や欲望があったわけでは
なかったと思いますが、たくさんの敵



主に武断派と言われた諸将から
命を狙われるほどに嫌われてしまいます。




特に決定的だったのが
慶長の役における
蔚山城の戦い(旧暦1597年12月22日~1598年1月4日)と言われた籠城戦の
査定を巡って、武断派と文治派の決定的な対立が起こります。

【蔚山城の戦い】

前回の文禄の役とは違い
今回の慶長の役では、日本側の狙いは




慶尚道【キョンサンド】・全羅道【チョルラド】・忠清道【チュンチョンド】の
確保、つまり朝鮮南部を確保するのが狙いでした。




そのため、朝鮮南岸側に倭城と呼ばれる城を建設。




蔚山の地に作られた倭城・蔚山城も南側に川が流れていて
兵糧を運ぶための兵船が着岸できる好立地な条件でした。




この城の縄張りを任せられたのは、
加藤清正で、毛利秀元・浅野幸長らとともに
慶長2年(1597)11月中旬から、突貫工事で築城を開始。




このとき、明・朝鮮側は、
日本軍の中で最強武将としてみていた加藤清正の拠点
蔚山城を落とせば、日本側の戦意をくじくことができると
考え、大軍で押し寄せようとしていました。




あと少しで城が完成となったその時、12月22日夜明け前に
明・朝鮮軍5万7000人による攻撃が始まる。




城外で守備をしていた浅野幸長ら日本軍は、大軍の攻撃に
耐えられず、惣構(そうがま)え=外郭の内側に退くことに。




毛利秀元は、城が完成間近だと確認し
釜山から、帰国の準備の為、蔚山城を離れていて




加藤清正は、その時、城から約28キロ離れた西生浦(ソセンポ)に
おもむいていましたが、敵襲の知らせを聞きつけて
いそいで、その日の夜には、馬を飛ばして
蔚山城に帰還。




ですが、城に戻ったとはいえ、未完成の城で
兵糧(ひょうろう)・水・弾薬の準備もない条件下で
しかも、季節は、もっとも厳寒期である12月末から年始。
(旧暦では12月は、今の1月ぐらいなので)




この条件下での籠城戦で敵は大軍となると
さすがの加藤清正といえども、死を覚悟
しなければならなかったでしょう。




明・朝鮮側は、大軍をもって城に攻め寄せますが
日本側の雨のような銃弾を浴び
なかなか攻め落とすことができません。




しかし、日本側は冬の寒さと飢えにより
倒れるものが続出。




いよいよ、もうだめかと思われましたが
連日、攻め寄せてもなかなか
落ちないことに焦りを感じた
明軍の将、楊鎬(ようこう)と麻貴(まき)は、
損害を避けるために、
籠城する清正に、
『城を明け渡すなら、和睦しても良い』という使者を
送りこみました。




加藤清正は、開城する気はありませんでしたが
捕虜の交換だけでも、と城外での会見に臨む決心をしました。




しかし、浅野幸長が危険であると清正を思いとどまらせようと
説得。この交渉が結果的には、時間稼ぎとなり
ついに、援軍到着の知らせが!!




蔚山西方に毛利秀元・黒田長政・蜂須賀家政ら援軍1万3000が
終結するにおよび、戦況は一気に日本側優位に。




年が明けた、正月4日から
明・朝鮮側は、援軍がこないあいだに
落とそうと今一度、不退転の決意で
総攻撃をかけるも、籠城兵は、なんとか敵の猛攻をしのぎ
きりました。



この段階で、退路断たれることを恐れた
明将楊鎬(ようこう)と麻貴(まき)は、包囲をといて
撤退を決定。




しかし、いままで死を覚悟して戦っていた
籠城側が黙って見過ごすはずもなく
援軍とともに、退却する明・朝鮮軍に襲いかかりました。




今まで優位に進めていた
明・朝鮮軍は大混乱。




この撤退戦で2万の戦死者を出して
漢城に撤退。日本側も追撃戦を継続できるほど
余裕がなく、早々に追撃をあきらめました。




その後、この合戦について
戦目付(いくさめつけ)の福原長堯(ふくはらながたか)は、
追撃に際して
蜂須賀家政、黒田長政、藤堂高虎、加藤清正が
追撃をしなかったとして軍令違反を秀吉に報告。




報告を受けた秀吉は、激怒。
蜂須賀家政は、本土に呼び戻され領国での蟄居という処罰を
下されました。


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ちなみに、戦目付(いくさめつけ)とは?
「軍の中でどのような働きをしていて
誰が貢献度が高かったなどを主君に報告する」という
たいへん重要な役目であります。
====================


この報告をした
福原長堯(ふくはらながたか)は、正室が石田正継の娘で
石田三成の妹だったので、石田三成が属する
文治派一派と見られていました。




この蔚山攻防戦の後、
宇喜多秀家・毛利秀元・蜂須賀家政ら13将は
戦線を縮小する案というものを豊臣秀吉に上申しているのですが
いかに、この戦いが厳しいもので
あったかを物語っていると思います。




つまり、文禄の役とは違い
2回目の慶長の役では、明・朝鮮側も準備を怠っていないので
日本側としても、戦を継続することが
困難で、そもそも
この戦いをする意義を感じられなかったのかも
しれませんね。




現場で戦っている諸将の気持ちが
『いったい何のために、わざわざ遠い異国を攻めているのか?』
ここが、曖昧なまま、戦闘を継続することに
不満があったと思われますが
秀吉は、逆に気分を害し、
この上申書を却下しています。




当初から、この朝鮮出兵に関しては
秀吉の野望、つまり明国を平らげるという
途方もない夢を実現するための戦いなので
戦いに動員される諸将にしてみれば、
いい迷惑だったのかもしれません。




それよりかは、自分の領国を安定的に
支配することに力を入れたいと考える
武将もいたとは、思いますが
拡大につぐ拡大を続けてきた秀吉政権は
時代の流れを読むことが、できなかった
ということなんでしょうか?




とにかく、この秀吉による朝鮮出兵が
秀吉政権の瓦解の起因だと考えられます。
晩年の秀吉は、やはり別人のように
なってしまったという印象がぬぐえません。




長くなりましたが
ここまで、拝読していただいた方には
感謝・感謝です。
ではでは。