ここには、何もありません。
少しの水と、二酸化炭素と、窒素と、酸素と、わたしがただ、あるだけです。
金も、名誉も、地位も、権力も、ここには存在しません。
モラルも、常識も、良識も、ここでは意味を持ちません。

 ここには、名前がありません。
名前を呼ぶ人も、名前を付ける人も、名前を知りたがる人も、ここにはいないからです。
ここにいるのはわたしだけで、わたしも名前を呼ばないからです。
わたしも名前を知らないのです。

 ここには、誰もいません。
いるのはただわたしだけで、わたしの目には誰も映らないのです。
誰かの目にも、わたしは映っていないのです。
だから、つまり、きっと、ここには誰もいないのです。

 昔、それは、わたしがここに存在するよりも、太陽が炎に飲み込まれるよりも、宇宙が膨張を始めるよりも昔。
一度だけ、誰かが、ここに名前を付けようとしたことがあります。

 「ここは、まるで楽園のようだ。何もないが、しかし、それゆえに清々しい。空の上を飛んでいるみたいに気分がいい。ここはさながら天の国、言うなれば、天国だ。」

 ここには、何もありません。
少しの水と、二酸化炭素と、窒素と、酸素と、わたしがただ、あるだけです。
存在意義も、存在価値も、自己も、自我も、欲も、善も、悪も、ありません。
わたしがただ、あるだけです。

それでもここは、まるで、天国のようです。
空気中を漂っているみたいに、心地良いのです。