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常に夢を持って波に乗ろう!

今日から文化の日を挟んで、

日本の一世紀、100年前からの

この国の文化進歩の足跡を

切手と文章で振り返ってみたい。

という言わば

タイムトラベルみたいなものを

皆さんと共に味わえたら幸甚なり。

 

あの世界に住んでみたい

 

これはどうでもいいつぶやきというより

日本文化に興味がある方には

有益な情報となるでしょう。

 

21世紀初頭「郵便局」が月々発行した記念切手集だが、懐かしいと思われる愛好家の方も多いことでしょう。

 

それでは、第1集を紐解いてみましょう。

1901年(明治34年)~1909年(明治42年)

 

そして、いつしか、その時代に

生きてみたい。と言う羨望すら

湧いて来る事でしょう。

 

 

 

ちなみに1901年の項では「みだれ髪」与謝野晶子の肖像と功績が讃えられている。

 

1901年から時事や話題になった事柄を切手デザインにおさめた、当時の風潮が郵便局の感性をもって伝わってくるのである。

 

そしてチンチン電車が描かれている。(あんまり大きい声で言うのもなんだか照れ臭いが......。)

 

チンチン電車と東京・銀座風景と題して、1903年(明治36年)8月、東京馬車鉄道から改名した東京電車鉄道として東京の品川⇔新橋間で運行を開始。京都に次ぎ東京における路面電車営業運転の始まりである。

 

次いで同年9月には東京市街鉄道が数寄屋橋-神田間、翌1904年(明治37年)12月、東京電気鉄道が土橋-お茶の水間を開業運転した。

 

なお”チンチン”という特徴ある発車の合図から「チンチン電車」の愛称で親しまれ、名物となった。

 

3社は1906年(明治39年)に合併し、東京鉄道株式会社となった。

 

そして第1集のそのほかには、浅草の常設映画館「電気館」開業や、日露戦争、夏目漱石の作品表紙、両国国技館落成、

また当時の世相としてハイカラが描かれている。なにせ開国に湧く明治時代ですから興味が尽きない。

 

しかし楽しみはじっくりこねくりまわしながら味わって享受したいもの。茶道具と同じように・・・・・・。

 

①「みだれ髪」与謝野晶子

(解説)「みだれ髪」は、晶子(22歳の時)の最初の歌集。1901年(明治34年)8月15日に鳳晶子の名で刊行され、若者たちの大きな支持を得た。装幀・挿絵は画家・藤島武二によるもの。

 

②常設映画館「電気館」開業

「電気館」外観と創業10周年記念チラシの一部デザイン

(解説)電気館は浅草六区に、電気応用の器具を見せていた小屋を改築し、1903年(明治36年)10月、日本最初の活動写真(トーキー)の常設館として開業。はじめは粗末な建物の見世物小屋でしかなく、観客は土間にたったまま映画を見たが、以後、常設の映画館は急成長してゆく。最初の上映は着色映画「ロンドンの大火」だった。

 

③チンチン電車

(解説)1903年(明治36年)8月、東京馬車鉄道から発展した東京電車鉄道で品川-新橋間で運行を開始した。東京における路面電車営業の始まりである。次いで同年9月には東京市街鉄道が数寄屋橋-神田橋間、翌1904年(明治37年)12月、東京電気鉄道が土橋-お茶の水間を開業。

 

④川上音二郎・貞奴

(解説)落語家から俳優に転身した川上音二郎は妻の貞奴と共に1899年(明治32年)に欧米巡業し大成功を収めた。1901年(明治34年)1月帰国。1903年(明治36年)には、明治座で「オセロ」、本郷座で「ハムレット」等の大型公演を成功させた。1908年(明治41年)帝国女優養成所を開いて女優養成を始め、日本の近代劇運動の先駆者的役割を果たした。

 

⑤⑥日露戦争

(解説)1904年(明治37年)2月、日本がロシアに宣戦を布告。奉天の戦い、日本海海戦等、戦局は日本に有利に展開したが、日本の戦力は限界に達し、米国大統領セオドア・ルーズベルトが講和を斡旋し、1905年(明治38年)9月、日露講和条約(ポーツマス条約)が締結された。

 

⑦「吾輩は猫である」⑧「坊ちゃん」夏目漱石  

(解説)1905年(明治38年)1月に発売された雑誌「ホトトギス」に、夏目漱石の処女作「吾輩は猫である」が発表され、以後、続編、続々編、等々、1906年(明治39年)8月まで、11回にわたり全編が掲載され、1905年(明治38年)10月から1907年(明治40年)5月まで、3回に分けて単行本が刊行された。「吾輩は猫である」発表を機に、漱石は本格的な作家活動に入り、1906年(明治39年)4月には「坊ちゃん」を「ホトトギス」に、同年9月には「草枕」を雑誌「新小説」に発表し、これらを収めた中短編集「鶉籠(うずらかご)」を1907年(明治40年)1月に刊行した。

 

⑨ハイカラ

三越呉服店(今の三越)が発行した月刊誌「時好」の1906年(明治39年)1月1日号の付録~。

(解説)「ハイカラ」はたけの高いカラー(高い襟のシャツ:High collar)のことで、のちに洋風を意味する広義な言葉として1905年(明治38年)頃から世間で広く使われるようになった。

 

⑩両国国技館落成

(解説)1909年(明治42年)6月2日に、東京・両国に「国技館」が開館し、板垣退助を委員長にした開館式が盛大に行われた。「国技館」という名称は、完成案内状に書かれた”相撲は日本の国技なり”の言葉から名付けられた。開館式では、当時の東西両横綱、常陸山と梅ヶ谷の土俵入りが行われた。

 

(シートの余白部分)

夏目漱石の肖像(大正元年9月の撮影/共同新聞社)

 

 

 

 

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