駿府からの富士 | 地球の日記☆マーク♪のblog☆

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常に夢を持って波に乗ろう!

駿府城二の丸橋を渡ろうとしたら城壁の石垣に何やら灰色のプルップルッ動く丸っこいものが点在するのが見える。

                  ↓ これはなんだ?

 

近寄って凝視すると

 

 

鳩?そうハト。そーか今年はとり年だった。

然しハトって城壁、石垣に身を寄せて仮眠するのか。 珍しい光景だ。

 

はて、ここ駿府城の主はだれだったかな?

 

                                          (駿府城の家康公像)

一般には徳川家康公とされているが・・・・・・。(これは鷹だったか)

 

駿府城は、今から約7百年前の室町時代、九州探題等経た名族今川家の流れを汲む今川範国(のりくに)が駿河守護職に任ぜられて以来この地域を治めてきました。

 

徳川家康(1543年生れ)も7歳~18歳まで当時慣行の人質として親元から離れここ今川家の駿府で竹千代(幼名)として肉親の愛と隔てられ育てられました。

 

1560年(永禄3年)兵力約3万の今川義元軍が愛知県の桶狭間で兵力約3千の織田信長軍の奇襲などにより敗れ以降同家は衰退し、1568年(永禄11年)甲州の武田氏により駿府を追われたとの記録が見られることから、それらを照らし合わせてみると1560年には家康17歳、同68年には25歳という計算になる。人質の身から解放されて自由を謳歌した時だったのだろう。

 

(浜松城内の展示品~)

 

そして家康は1582年(天正10年)に駿府の武田氏を追放した後、1585年(同13年)に青春時代を過ごした懐かしの駿府城を改修させて浜松城より移転してきました。

そのときの晴れがましい気持ちはどうだったでしょう。みじめな人質時のトラウマを見事払拭して人生の展望が見えてきたのかもしれません。

 

                                                 (浜松城)

しかし世の中そう甘くはありません。禍福は糾える縄のごとし。人生山あり谷あり。

希望が見えたのもつかの間、1590年(天正18年)当時上司である豊臣秀吉から関東移封(転勤)の命が下され、ここ駿府城の主はハト、いや中村一氏が。

 

ここで有名な遺訓が想起されます。

「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え。勝つことばかり知りて負くることを知らざれば害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり」

 

臥薪嘗胆、トップになるまではカツマデハホシガリマセン。それが人間の修行でしょうか。じっと雌伏し嵐が去るまで待つ、相手が弱るまで辛抱強く待つ。いや勉強になります家康公の生きざま。

 

 

さて、話は戻ってその後、関東で実績、人望を蓄えた徳川家康が1600年(慶長5年)、関ヶ原の合戦で北上とみせ挟撃を誘うおびき出しに乗った豊臣方石田三成ら西軍を打ち負かし、14年後大阪冬の陣、15年後夏の陣で雌雄の決着をつけますが、その間の1607年(慶長12年)に、家康は今度は大御所として三たび駿府城に入る。

そしてその時は天下分け目の決戦に勝った大御所として天下普請という名目で全国の大名に使役を出させ拡張工事を行った形跡があります。

こうして徐々に適切な施策を出しながら無理なく諸大名をオペレーションしていったのではないかという足跡が辿れます。

 

                                         (駿府城)

静岡市の交差点では聞きなれたメロディーが心浮き立たせてくれます♪あーたまをく~も~の~う~えに~だ~し~♪ ふ~じ~わ に~ぽんいちの~やま~♪

 

                                    (駿府城から見た富士山)

ここにも日本一の城下町の気風が残っていて嬉しく思いました。

 

参考資料:新人物往来社発行「歴史読本手帳」/浜松城案内資料/静岡市教育委員会案内板他