今日も図書館に行きました。
昨日、少し飲んだんで午前中は家にいましたが。
四月も末になるとだんだんと学校も落ち着きを取り戻してきます。新歓の時期も過ぎて、ブースは出ててもなんとなくどこもノンビリとした感じです。
今日は、ノースさんが風邪だったんで一人でした。
学校の木々も緑になり暖かさが増してきました。だんだん夏に近づいていくんですね。もう四回生。月日の流れるのは早いです。
ところで、昨日の新聞の一面はどこも千葉の補選についてでした。
僕はこの選挙の結果は不満です。
民主党太田和美は勝つべきでなかった。千葉の有権者は斉藤健を勝たせるべきだったと思う。理由は幾つかある。別に、太田氏が過去にキャバクラで働いていたからとか高卒だからいけないというつもりはないし、斉藤氏は東大でエリートだからいいと言う訳でもない。
そもそも僕は、エリートは嫌いです。
ただ、職業としての政治は大人の生業だと思う。若者がどんどんコミットしていくのも大事だけど、それ以上に政治を担う人間の見識は大人のそれであるべきではないだろうか。
政治ジャーナリズムの世界の長老であり、最も権威のある岩見隆夫という人がいる。元毎日新聞政治部で、TVにもちょくちょくでているんでご存知の方もいるかもしれません。岩見さんのコラム(このWEBで読めます。面白いんでご存じない方は是非一度読んでみてくださいhttp://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/iwami/ )に以前、「20代の候補がマイクを握り、 「今の日本、おかしいと思いませんか。……」と絶叫しているのを聞くと、正直なところ違和感を覚える。当方、70歳近くなって、まだこの国の難解さに悩んでいるのに、20代の若さでどこまでわかっているのだろうか、と。」という指摘をされていた。
僕は、岩見さんの指摘はもっともだと思う。議員は先生と呼ばれる。人々に国家社会の進む道を示すリーダーだ。特に、一国の行く末を決める国会議員の職責は重い。26歳の太田氏にその資格はあるのだろうか。
千葉の有権者はとっても若い候補者が好きなようだ。因みに、メール問題を引き起こした永田代議士も千葉だ。しかも、太田氏の選挙区の直ぐ近くだ。
斉藤氏は、演説でも二人の子供の親として安心できる社会を築きたいと訴えていた。真っ当に生きる自立した普通の「市民」としての地に足着いたとてもいい演説だった。就職して、結婚をし、子供を育てるお父さんとしての斉藤氏の訴えは決して役人臭い、エリート臭い議論ではなかった。政治が最も真摯に耳を傾けるべきは、「就職して、結婚をし、子供を育てるお父さん」やお母さんなどの普通の人たちの声だ。そういった意味で、斉藤氏の主張は的を得たものだった。
確かに、東大でて通産省のキャリアになった斉藤さんは「普通の人」ではないかもしれない。しかし、20代で県議としてバッチをつけ自転車で走り回る太田和美代議士のようなお姉さんの感覚はエリート官僚以上に「普通の人」の感覚から離れていると思う。そういう意味で、一部の斉藤氏へのエリート臭さについての批判はあたらないしおかしい。
僕は、政治家は普通の社会経験を十分積んだ人がやるべきと思う。
以前、ある民主党の国会議員がこういうことを言っていた。「政治を志すんならどんな仕事でもいいからサラリーマンを最低10年やってからのほうがいい」と。彼は、報道の現場で三十台の半ばまでサラリーマンの記者として働き首都圏のある選挙区で初当選した。この感覚は大事だと思う。政治の世界は特殊であるが故、月給を貰って働くサラリーマンの感覚と大分ずれることがある。この議員はそれが一番よくないことと考えてこういう話をしてくれたのだと思う。
政治は、どんどんプロ化していく。また、選挙も素人ではやれない部分があるのも事実だろう。細かい公選法の規定に関する知識も必要。演説だって、ウグイスだってカラス(ウグイスの男版)だってうまくなるには練習がいる。マスコミ対策だっていろんなテクニックが必要だろう。
政治のプロ化というとどうしても自民党をイメージされやすいと思う。業界団体や企業がどさっと人と金をつぎ込んで組織選挙をやる。民主党はなんとなくボランティアががんばって素人っぽい選挙をやる。これは、一面真実だろう。しかし、普通の人に政策や訴えている内容を伝えようとする努力は確実に自民党のほうがしている。確かに自民党の方がプロ意識がつよいかもしれないが、目線はとても低いと思う。民主党の議員や運動家の中に全てでは決してないが、始から政策を伝えようとしないひとがいる。実際、無理だと諦めている人もいる。自民党系の人はこの点はとても真面目だし、秘書さんなんかもよく勉強している人が多いように思える。
太田氏を押す民主党は、政策や理念を伝えることを怠っているように見える。
特に、今回の選挙では。
だいたい「負け組ゼロ」を目指すという補選での民主の主張は理解できない。普通なら、負け組勝ち組という所得の多い少ないでいいとか悪いとか判断するのはよくないと主張するのが、格差問題について指摘するときの基本だろう。それをあえて、負け組という言葉を使う。なぜこんないやな言葉(お金が多いか少ないかを価値基準にする下品な表現)をあえてつかうのか理解できない。
斉藤氏のメッセージは反対にとてもストンとくる。「健康な日本、健全な政治」いいじゃない。
少年犯罪の多発を始め、社会規範がどんどん崩壊し「健康」でなくなっている日本への危機感。そしてそれを支える為の、「健全な政治」の必要。斉藤氏の人生を描いた、大下英二(政治のノンフィクションものの作品の多い著名な作家)の「斉藤健物語」(http://www.saito-ken.jp/story.htm )を読むと斉藤氏の思いがよく伝わってくる。
この中に、以下のような一節がある。
米国留学中に考えさせられたことがある。日本では、足の遅い児童を傷つけてはいけないということで、徒競走で順位を付けないということがおこなわれている学校もあるようだが、この話をアメリカ人の友人に話すと、米国ではこうだと言う。足の速い子は、その限りにおいてはやはり偉い、そして、足の遅い子を助けてあげたら、もっと偉いと。
こういう話であれば、速く走ろうと努力した子が報われ、さらにみんなのために貢献しようという気になる。なかなかうまい言い方である。米国で、ビジネスで成功した人間が福祉活動に巨額の寄付をしたりするケースが多いのは、背景にこういう考えがあるからであろう。
斉藤はこうも言っている。この世から不条理に完全に取り除けないのだから「政治は優しくなければならない」とも。こういった、アメリカ的な保守の価値をブッシュ大統領は最初の00年の大統領選挙の指名受託演説で「思いやりのある保守主義」と表現した。
競争や活力を重んじ努力や勤勉、そして成功に敬意を評すが、同時に弱い立場や恵まれない人々へのやさしさ、思いやりを忘れない保守主義のありかたである。
斉藤は「転落の歴史に何を見るか」という著書で日本の転落の歴史を研究し、その上で以下のような「現在」の歴史的位置付けを行っている。
これからの10年というものは、まさに戦前の正念場であった1920年代に匹敵する。1930年代に入ってからの日本は、すでにどうしようもない加速度がついており、転落を押しとどめることは到底不可能であった。21世紀前半の日本が転落の歴史をたどるのか、あるいは、復活の歴史を刻むのか。答えは、この10年の過ごし方にある。だとしたら、自分は政治の世界で、社会のためにやれるところまでやってみたい
凄まじく、厳しくまた的確な指摘だと思う。
日本は、大きな曲がり角に来ている。それは、先の大戦と同じだけの敗北を経験しなければならなくなるかもしれない瀬戸際なのだと斉藤はいう。僕もそのとうりだと思う。政治家の中で、これだけの思いで政治に携わるものがどれだけいるだろうか。
今回、斉藤健は負けた。しかし、死んだわけではない。日本の為にもこの人は必ず復活しなければならない。次の総選挙は、3年以上先かもしれない。しかし、歴史は必ず斉藤を必要とするときが来ると思う。
是非、再起を期していただきたい。