私は、今とっても幸せだと思う。
でも、それを人に伝えようと思った時、自分の闘病記しか話せないことに気がついた。
そもそも、自分の今の幸せを人に伝えるのは独りよがりであるとも思う。
なぜなら、私の幸せを伝えても、何か法則があるわけでもなんでもないし、病気の場合に限るからだ。私の場合は、四年間の闘病生活は、今の私の幸せの大本であると本気で思っている。
私が伝えたいのはこれにかぎるのである。
何年もに渡る闘病生活は本当に辛かったし、特技は自分を含むすべてを責めることだった。だが、今現在、闘病生活は私の何よりも宝物となっている。私が目指している道が、心の専門家だからかもしれない。正直、これは経験しないとわからないから。どんなに努力してもわからないことがある。私は、この部分に少しでも多く寄り添えるようになりたいと思っている。私は、理解されなさ過ぎてどうしようもなくなったから。もし、当時この気持ちを私の傍で本気で分かち合ってくれる人に出会えていたなら、どんなに救われたことだろう。症状はどんどん悪化していく、心も壊されていくそんな状態で三年を過ごした。自分で言ってしまうのはどうかとは思うが、よく生きてきたと思う。こんなにも痛みを伴うのなら、生きていたくないと思ったことだってある。何度思ったことか。右手なんていらないと何度思ったことか。
今から書くのは、四年前に始まった一つの壮絶な物語。そうは言っても実話である。
四年前の高校一年生の春、物語は始まった。四月の終りの木曜日の一時間目の英語の授業中、私の人生は変わり始めた。先生の名前も、座席の位置も、隣に座っていた子も覚えている。
急に、右手が痙攣し、痺れ、感覚が麻痺し、鉛筆が持てなくり、何度も落とし、何度も握ろうと努力したが、出来ず、隣の子に「なにやってんの?」と言われたのを覚えている。何をしているのか、自分が知りたかった。頭の中が完全にパニック状態だった。痺れがどんどん強くなり、紙や物に触れることができなくなっていった。それでも、よく怪我をしたり、病気をしたりする私のことだから、一週間も放っておけば、治るだろうと親と養護教諭にも言われたし、自分でも言い聞かせていた。だが、その考えは甘かった。どんどん痛みが強まっていったのである。
結局、一週間も我慢できず、次の週の火曜日に学校に遅刻することにして、整骨院に行った。これが、病院巡りの辛すぎる残念なスタート地点である。この整骨院では、筋肉の凝りだと言われ、吸盤を付けて電気で揉まれた。痛すぎて飛び上がっている私に、駄目なわけがないと何回もつけ直し、私の痛みは増長した。この時、二度とここには来ないと心に決めたし、ありえないと思った。その日の夕方、やはり痛みに我慢できず、近所の整形外科に行った。そこでは、ビタミン不足だと言われ、ビタミンB16を出された。その日の夜、痛みがさらに増したため、同じ病院で違う先生に診せたところ、私があまりにも痛がっていたせいか、ここでは手に負えないから、明日、労災病院に行って診てもらってと言われ、シャーレを作ってもらい、腕を吊った。すでに、このあたりで嫌な予感がしていた。また、よくわからない日々が続くのかと。次の日に労災病院に行った。整形外科を受診したら、先生たちにかなり慌てられ、血液検査をされ、レントゲンを撮られ、神経内科に回され、膠原病内科に回され、神経内科に戻された。後で考えてわかったのだが、私の痛がり方が尋常ではなかった為、整形外科の医師が膠原病を疑ったらしい。
この時出会った、神経内科の医師と整形外科の医師ををかつてどれだけ恨んだことだろう。あの時、気づいてさえいてくれたらと。結局、当時六月末まで神経内科に通い、ボルタレンの飲み薬とゲルを出され、三食飲み続け、塗りたくっていた。自分の身体がぼろぼろになっていくことに怯えながら。この時、最も言われたくないことを言われ始めた。精神的な...。私にとってこの言葉を言われたら最後。いろんな検査をして、何も出てこなさそうだとわかると、痙攣は痛みを感じてる心の反応だからと片付けられ、遠まわしに何か心に問題があるんじゃないかと言われ続けて、最終的にあと一か月もすれば治ってくるんじゃないかといって、病院を追い出された。
この時点で、お先真っ暗だったのは言うまでもないことだ。
