「此処、良いですか?」


初めて話をしたのは、教育学の教室だった。

自然と耳に馴染む高めの声

其れが私に掛けられたのだと気付くのには一瞬の間が出来た。



「…あ、どうぞ、」



遅れて返事をすると、既に座りかけていた彼女は目を丸くして私を見た後


「ありがとう。」


とだけ言い、ふわ、と笑った。










彼女は私の取る授業の殆どに居た。

しかし彼女の周りに居る“友達”らしき人達は、いつも違った。
それは特定の友達を作らないという彼女の、ある意味での弱さや、逆に強さを強調しているように見えた。




教室に入る。
まず、空いている席と共に彼女を探す。


それが私の日課になりつつあった。











確か、あれは朝方まで雨が降っていた空が暗い日だった。


その日最後の授業である日本文学の教室に入ったとき、彼女が窓側の席に一人座っているのに気が付いた。

さらさらのセミロングの髪を無闇にいじらずに少し明るくしてあるのは
ギャル系でなく、だからと言って個性が強いというわけでもない
見た目で“女子大生”とわかるような、一般的な容姿の彼女がなぜ目を惹くのかは、わからない。




ふら、と彼女のほうへと吸い込まれるように歩く。



「あ、」



自分に近付く足音に気付いたのか、私が声をかける前に彼女から手を振ってきたので
ぎこちなく手を振り返した後、彼女の隣へと腰をおろした。









彼女は少し変わっていた

いや、変わっていた、というと語弊があるかも知れない。

何か、今まで私の周りにいた女子達とは違ったというだけなのだ。









『法律って、必要なのかな?』



法学の授業中に、彼女がルーズリーフに書いて回してくる。

授業中の会話は専ら筆談、という点は高校生でも大学生でも変わらないと思う。




『なきゃ犯罪だらけになっちゃうよ』


すらすらと簡単に意見を述べ、私は再び板書へと戻った



『でも 自由が無いじゃない』


『自由って?』


『自由は自由だよ』


『今 不自由してるの?』


『してるわけじゃないけど…息苦しいじゃん』


『息ぐるしい?』


『うん 生きにくいっていうか』


『死にたいの?』


『そうじゃなくて 自由がほしいだけなの』






答えに悩んでいると、授業終わりのチャイムが鳴る。


「あっ、」



彼女はノートを片付け始めたと思うと、横から筆談をしていた紙を取り
ぐしゃぐしゃに丸めて鞄の中へ押し込んだ。





「…自由って?」



少し不安に思った私は教室を出たところで聞く




「自由は、自由だよ。」


「好き勝手にできるってこと?」


「んー、ちょっと違う」


「何不自由がないってことでしょ?」


「そうなんだけど、あの、なんていうのかな。何にも縛られていないってこと、かな」







じゃあ、また明日。
と言い残し、彼女は歩みを速めて校門を出て行った。










それから私は、毎日“自由”を考えていた。



自由。

じゆう。

何にも縛られていない。







大学という、狭い教育機関にも

無駄に広いキャンパスにも

流行にも


もしかしたら、電車や食事のマナーだとか
それこそ法律だとか

そういうもの 全部から解放された、

“自由”?






「…それは、無理、だよ」



部屋で一人呟く声が、虚しく空を舞った。










『私、明日自由になる!
13時に教室棟3階の休憩所集合ね』



彼女からメールが届いた。


いつもの調子で送られてきた文を読み、短く

『了解』

とだけ返信したあと
眠りについた。













13時の5分前に学校に着いた

ぎりぎり待ち合わせ時間に着く、という感じか。



それならいいか、と軽い考えを巡らし
私はたいして急ぎはせずに教室棟へと向かう。






待ち合わせ場所は3階の端にある休憩所(といっても、ただテーブルと椅子があるだけの場所である)なので、
階段に一番近い入り口から入ろうとすると
真上から声がかかった。




「ねえ!」



紛れもない彼女の声に不信など抱かず
ごく自然に建物を見上げる。

3階の窓




ではなく、屋上から私を見下ろす彼女がそこにはあった。
教室棟は3階建ての為、実際の高さとしては4階程度だろう。






「遅いよ、もう13時になっちゃう」


「…なにしてんの、」




下から上へ声を届かせるには、少しばかり労力がいる

いつもより張り上げた声に感情はうまく含まれなかった。





「何、って…」


「そこ、屋上。待ち合わせは、3階でしょ?」


「13時までに来れば3階に居たよ」


「なんで、屋上…、」




そこまで言いかけて、嫌な想像が頭をよぎる




屋上


自由





…まさか。











「自由になるって、言ったじゃない。」







俯いた私に降って来た声は
どこか棘があり
悲しそうでもあり
彼女の想いを一身に背負ったようだった




















再び顔を上げたのは
どすん、という鈍い音と
周りの、悲鳴にも似たざわめきが聞こえてきてからだった。



彼女は、私から2メートル程離れた所に居た


その周りには人が集まっている








少し明るい髪が見える

すっと伸びた腕は白く、しなやかだ



異質な、アカイロが見える

すっと伸びた腕は、所々鬱血していた






ああ、



彼女は、自由になれたんだ。







「死にたいわけじゃないって、言ったじゃない」




薄い雲が覆う空の下

私の涙は行き場をなくしていた。