日本俳句研究会のサイトに「俳句の作り方」というページがあります。
 
「俳諧は三尺の童にさせよ
 
松尾芭蕉は『俳諧は三尺の童にさせよ』と言ったそうです。
 
大人になると、頭に蓄積された知識が邪魔をして、おもしろ味のない句を作ってしまいますが、無垢な子供ならば、感じたままのことを、常識のフィルターを通さずに表現してしまうため、大人が驚くような、おもしろい句を作りやすいということです。
『お~いお茶新俳句大賞』の審査員であった文化功労者の森澄雄さんは、その講評の中で、
 
俳句は奇異を弄せず平凡な人間の、だれもがいだく素直な思いを深く詠い、過ぎて行く止まらぬ時間の、いまの一瞬に永遠を言いとめる大きな遊びだと思っている。しかし、たいがい俳句に齢を重ねるにつれて、奇異や技巧を弄するようになる」
引用・『俳句とめぐりあう幸せ』好本惠/著 リヨン社
 
と述べて、子供たちの作品の初々しさを高く評価しました。
このため、『お~いお茶新俳句大賞』の受賞作品には中学生の句も多いです。」
 
と書かれています。
 
今回結果発表の兼題「月見草」の天選は、まさにこの話を地でいったような句です。
 
つきみそうリコーダーならラの音だ ひろしげ8さい
 
「ひろしげ8さい」という俳号の方は、実際のお子さんのようで、お母さまかどなたかが投句なさっているようです。
8さいという俳号の年齢部分は、年々実際に徐々に増えていたように思います。
 
組長の選評を転記します。
 
「本当の『つきみそう』は黄色ではなく、白い花で時間とともに色を変えていく、いかにも儚げな花であることを知ると、猶更こころが揺らぎます。
 一句一読、ハッとしました。『つきみそう』を『リコーダー』の音に喩える発想はもちろんですが、『ラの音』という感覚にハッしたのだと思います。『リコーダー』の柔らかい音のイメージだけだと、季語『つきみそう』の持つ美しい負性を表現しきれませんが、音階の中の『ラの音』にはかすかな翳りがあるように感じられます。音楽の授業の聴音で、ドミソの和音とドファラの和音は、なんでこんなに気分が違うんだろう?と思ったことがありますが、作者ひろしげ8さいの心を似たような思いが過ったのかもしれません。
 聞くところによると、沖縄の音階にはレとラの音がないのだそうです。ドミファソシドの音階で紡がれる沖縄の歌の持つ懐かしさや温かみは、音の成分にも要因があるのかなと思います。
 『つきみそう』を『リコーダー』の音階に喩えると『ラの音だ」という詩的断定は、さざ波のような淋しさそして憂いとなって、読者の心に寄せては返します。『ラ』という音への感性、『つきみそう』の儚さへ寄り添う心、それらが八歳の少年の心を通して、こんな詩語となって結実していることに静かな感動を覚えます。」
 
「赤ちゃんの産声は世界共通で“ラ”の音」というトリビアもあります。
 
三歳の子どものようなピュアな心を持つ方の言葉こそ、俳人が目指す頂点なのかもしれません。