まあ、相変わらず意味不明な記事タイトル句でごまかしておりますが・・・。


昨日告知させて戴いた俳句甲子園を支援するクラウドファウンディングが一夜明けたら目標額を達成しておりました。

皆さまのご協力の賜物です。


とりわけpironさま、突然の不躾な指名でのお願いをご快諾下さり、深く感謝致します。


悠さまより、お金以外ならとのコメントも戴きました。

まあ、無一文という表現はご謙遜でありましょうが、価値観は人それぞれであり、何にでもお金を出しさえすればいいとは、私も思いません。

自分が財産の一部を捧げてもいいと思えるものでなければなりませんし、お金を不用意に出すことが相手を傷付ける場合もあります。


私が中学生の時、通信教育を受ける決心をしたことがあります。

月々の受講料をお小遣いで賄い、勉学に励もうと燃えていました。

父が、受講料の延滞を懸念して、一括で支払ってしまいました。

何かやる気を失い、その通信教育への熱意が醒めていきました。

その通信教育の会社は受講途中で倒産し、受講自体が中断した記憶があります。



仏教に、貧者の一灯という言葉があります。

マガダ国のとある村にお釈迦様が夜訪れるというので、多くの篤実な寄進者が灯りを点して途中の道を照らしました。

貧しい老婆も灯りを寄進しようと思いましたが、お金がありません。

仏教学者によると、彼女は自分の人脂を集め固めて一灯を捧げたそうです。


お釈迦様は、都合で到着が遅れ、多くの灯りは燃え尽きました。

彼女の灯りは、燃え方が鈍く、お釈迦様の到着の瞬間も灯りが点いていたそうです。



障害児を抱える保護者世帯に、手当や年金などが支給される制度があります。

施設に預けると、その金銭的支援は、施設に与えられ、保護者には届きません。

それを嫌って、施設に預けない保護者もいるとか。

もちろん、障害児を施設に預けるかどうかの事情は個別で異なるので一概に言えません。

でも、障害児に食べさせてもらっているとしか思えない保護者家庭もない訳ではないと聞きます。


生活保護の受給直後にギャンブルで使い果たすという話も耳にします。

東日本大震災で生活の糧を得る方法を失い、義援金に頼る生活に、人間としての尊厳を奪われたような屈辱を味わっている人もいるとか。

災害支援においても、義援金がいいのか支援金がいいのか、一考の余地はありそうです。


とは言っても、お金による支援は無意味ではありません。

労働的奉仕で支援しようとか、物資で支援しようとか思っても、様々な都合が合わなかったり、マッチングしない場合もあります。

お金は、そういった際に、小回りの利く支援方法です。

要は、お金を生きた使い方をする方に回るかどうかが鍵ではないでしょうか?



俳句甲子園地方大会を観戦し、高校生が真摯に俳句と向き合っている姿に感銘を受けました。

人はパンのみにて生きるにあらずです。

これからの高齢化社会、俳句を嗜むことが、人間の尊厳と人生の楽しさを味わいながら長寿を享受する秘訣かも知れません。

100年後に俳句という文化が廃れていないよう、俳句の種蒔きをできる範囲で進めたいと思うのです。



この度は、ご協力ありがとうございました。