郡上八幡城 | 朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶の由来は、朝寝坊して昼過ぎからのこのこと温泉に出かけていく習性に由来しております。

弁慶はなにかといえば、語呂合わせみたいなものです。

興味の幅がありすぎて、まとまりがありません。最近は京都に住んでいます。気持ち的にはです。

先日ご一緒させて頂いた芸妓さんは城好きだった。


というわけで(キッパリ)、次は城を目指しますが八幡城は山城なので、当然、山を登らないと着かないのである。



まずは下の駐車場まで登ると、山内一豊と妻の像がある。ここまでは麓の安養寺から5分もかからない。


ここから先は運転に自信がない人は歩いて行けと書いてある(そんなに乱暴な物言いではないが)。しかし、辞めた方が良かったんじゃないか?というレベルの運転で登っていく車もあった。



車道と山道。山道を登ったほうが3分早く着くそうだが、そんなこと言ったって、対象とする年齢でずいぶん違う気がするのだか。



山内夫妻の像から約15分で最初の撮影ポイント、だそうだ。ビューポイントの看板があったので、反対側の景色を眺めて「どこが?」と振り返ったら城が見えた。そういうことかと改めて看板をよく見たら、城の写真を撮るポイントと書いてあった🤭。



次の撮影ポイント。今度はちゃんと読んで、指示通りに石垣を入れて撮影した。



奥の院は、「およし」を祀っているのだそう。突然だが、人柱となった「およし」の話。



戦乱で壊れたこの城の石垣などを修復する作業に積極的に参加していた17歳の女性「およし」は、難航する工事を、ついに我が身を人柱として地中に入ることで、支えたということが伝えられている。



そして、なんと郡上八幡城は、日本最古の木造再建城なのである。


本当の城は廃藩置県で廃城となり取り壊されたのだ。現在の建造物は1933年に再建された物である。まったくもって明治政府は、城も壊すし仏も壊す。



最上階までは急な階段を3階分登る。



せせらぎ街道、高山方面の町並み。



こちらは通って来た城門。眼下の町並みあたりが、この日、立ち寄ってきたあたりになる。


帰りは城の裏側に回ってみた。



淩霜隊の碑


淩霜隊は慶應4年、一部の佐幕派藩士からの突き上げで家老、朝比奈藤兵衛の子息、朝比奈茂吉(17歳)を隊長に、江戸脱藩藩士45名により組織された部隊。隊員の指名と年齢が表になっているものを見て隊長が一番若く違和感があったが、内容を読んで納得した。現代とは違い家柄が重要な時代でもある。また、一説によると郡上藩は勤王派であったが、生き残りの為の二股戦略とも。


隊は江戸から各地を転戦し、最後は会津で会津藩が降伏するのに準じた。



およし塚


登りの時は通り過ぎてしまったが、最後の登り口の手前に、人柱となったおよしの塚であった。


ゆえあって、かなり急いで降った。



それでも立ち寄ったのは、裏鬼門の守護である岸劍神社。祭神は素戔嗚尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊、菊理姫尊など。


ちなみに、表鬼門には牛頭天王を祭神とする八坂神社がある。



さらに降った場所にある善光寺の境内には、およし観音堂が建っていたので、南無観世音菩薩とお詣りした。


ね。