北京オリンピック、ジャンプ団体。髙梨沙羅選手の失格が話題に。道産子なので熱烈に応援すべきかもしれないが、彼女の容姿の変化にちょっと違和感があり、あまり応援する気になれないでいた。でも、さすがに今回の失格はあまりにも可哀そう。泣き崩れた時は込み上げて来るものがあった。その後オリンピック直後のワールドカップを欠場し、復帰した試合で見事優勝。精神的な成長を感じた。その優勝インタビューを英語で応えていた。

I’m so naïve.と言っていたと思う。

この動画を探したが私では見つけられなく確認出来なかったが、

(この枕を書いた後、確認出来て私の勘違いだった。naïveではなくnervous。申し訳ない。今回この流れで書いたので、これでお許しを)

 和製英語の知識がある日本人が聴くとちょっと違和感を覚える表現だったかもしれない。実は彼女は英語で堂々と「自分は若くて未熟だ」と言ったと思う。日本で使われるnaïveのイメージと英語圏の使い方ではかなり違う。英語講師の中には、カタカナ英語の間違いを正すだけで、日本人の英語レベルはかなり上がるという人もいる。確かにそうかもしれない。英語のskill upのため、いやup skillが正しいのだから。

 さて、変化の激しい時代に、日本語を母体とする日本人は不利だと前回書いた。今や英語は当たり前になりつつある。芸能界では英語を勉強している若い人もたくさん出てきていて、昔はルー大柴か中村雅俊ぐらいしか思いつかなかったが、数え上げればきりがない。そのぐらい普通のことになっている。英語は既に有利なスキルではなく、当然のスキルとなりつつある。

とは言っても、私のように、留学経験なし、大学で留学生と触れたこともない普通の人は山ほどいる。このような人達がいかに英語を使えるようになるかは日本がかかえる大きな社会的課題の一つだ。以前語順に少し触れたので、今回は否定の前倒しについて書いてみたいと思う

 会話の中に否定語が混じると、相手の意思をつかみ損ねることはよくある。それは日本語の否定が文末にあるのに対し、英語では文頭の方にあるからだ。英語では先に否定しているという前提で会話を聞かなくてはならない。(これを大西先生は指定ルールと呼んでいる)特に分かりづらいのが、「部分否定」と「全部否定」だ。2つの文を比べてみよう。

I haven’t read all of them. ①

I haven’t read any of them. ②

日本人の感覚では、allがあるので①が全部否定で②が部分否定に思える。しかし、英語はnotが先にくるので、否定の感覚が先行する。指定ルールから次に来るallレベルを否定することになるので、「全部じゃない」と部分否定となり、「私はそれらを全部読んだわけではない」となる。

一方②の方は同じように否定の感覚が先行し、次にany(どれをとってもという選択の自由を意味する)が来るから、「どれを選択してもない」となり、全部否定「私はそれらのどれをも読んでいない」となる。

 次に思考系動詞のnotの前倒しについてみていきたい。

思考系動詞think, believe, suppose, imagine, seem, expect等の場合、notは前倒しされる。

I don’t think that he‘ll come tomorrow.

この文を日本語にすると、「彼は明日来ないと思う」と後ろ側の節部分を否定するが、英語は日本語とは違い、思考系動詞側を否定する。これも指定を前置きする英語のおおきな特徴の一つだ。初めに、これからいう事を「そう思う」のか「思はないのか」を前倒しするのだ。

 最後にもう一つ、否定疑問文の答え方に触れる。これも本当にこんがらかってしまう。しかしネイティブにとっては、いたって単純。聞かれたことの事実を否定で答えるならno、肯定で答えるのならyesとなるだけ。

Didn't you visit New York?

  ニューヨークにはいかなかったのですか?

行った場合

 Yes, I did.  いいえ、行きました。

行かなかった場合

 No, I didn’t.  はい、行きませんでした。

 このように、日本語の相槌感覚が全くなく、実にシステマチックに出来ている。

英語嫌いの人に興味を持たせる挑戦は続く。

 

四方山話編

 時代劇が廃れて久しい。そんな話を交えながら今、朝の連続テレビ小説が進んでいる。

人情物の時代劇は無くてはならないものだ。旭川出身の脚本家山本むつみ(私と同学年、残念ながらあったことはない)が脚本を担当するNHK「小吉の女房」。このような番組が多数つくられることを願う。