私と同世代の作家橘玲の新書「無理ゲー社会」がベストセラーとなっています。彼の主張は、弊誌ブログの内容を、膨大な知識と豊富な経験、圧倒的な文章力で、インテリ層に訴える読み物に仕上げていることです。彼にしてみれば一緒にするなという思いでしょうが、現状認識は近いです。違いを探せば、彼が言う上位5%以外の普通の子供たちに勉強を教えたことがあるか否かの点。従って、育った家庭環境の違いで、社会のスタートラインが一周遅れ、2周遅れ、いや、そもそもスタートラインに立てない、立たない、となってしまっている現状認識に温度差があります。とはいえ、最後に「いまの苦しさは個人の責任ではなく、日本社会の構造的な問題であり、実はそれは世界のより深い構造的な問題。自分だけが失敗している、脱落していると思うと凄い恐怖ですが、そうではなく、大きな流れの中にのみ込まれているのだと気づくだけでもずいぶん違うのでは」と温かく結んでいます。

 彼の主な主張は6点「知識化社会」「個人の責任」「正解の不在」「人生100年」「新自由主義」「日本型雇用」。ここでは、「知識化社会」を中心に、これからの日本、特に地方都市に生きる人々は、これからどうすれば良いかを考えてみたいと思います。

 都会に住む人が、地方都市に住まない理由は何でしょうか。地方都市の濃密な人間関係の煩わしさ、娯楽の少なさ、所得、教育水準の低さ等、個別に考えれば色々あると思いますが、最大のネックはやはり仕事です。都会に行けば行くほど様々な仕事があり、人が集まれば集まるほど、仕事へのアクセスが二次関数のように増加します、だから、人が少ないと成り立たないような仕事も都会に行けば成り立ったりします。私の友人の一人も東京で長年絵を描いて生計を立てていますが、「旭川に戻って絵を描いて暮らしたら」と誘ったら、絵画教室も収入源なので無理と言っていました。絵を売るだけではなく、そういう事も含めて東京なのだと思い知らされました。コロナ禍でリモートワークが注目されていますが、高度に専門化された知識労働には向きますが、エッセンシャルワーカーにとっては無縁の話。つまるところ、「知識化社会」で既に活躍できている人の働き方改革です。

 地方での生活は、多少年収は減ったとしても、居住費等生活費がかなり安いので、その分カバーできるような気がします。やはりここは、収入も大事ですが、それを得るための職場がない、職種がない、刺激がないに収斂されていきます。ここが解決されれば、人は地方に移住するはずです。

 一次産業への就労促進が盛んですが、以前のような労働集約型では成り立たないので、雇用される人数も限られます。加えて就労を始める人は転職だろうし、労働者は外国人労働者とならざるを得ません。たとえ六次産業化したとしても規模が小さいと不安定です。観光業や飲食業もコロナ禍で、その存立基盤の危うさを露呈しました。企業誘致による生産拠点の移動も、国際化により長期間保証されたものにはなりません。SNSの利用で、様々なところで、色々な人が地方の魅力を発信できるようになりましたが、エンドレスの目新しさ合戦です。「これだ」という「正解の不在」。地方再生の切り札がない以上、それぞれの立場でやれることを探して実行していくしか道はないのでしょうか。

 意識、認識を変えるだけで出来ることがあれば、それは各人からスタートできます。もし「知識」に対する認識を少しでも早く変えられるとしたら、これが最も有効なだけでなく、この変化の延長線上に未来社会が続きます。「無理ゲー社会」の著者の主張通り「知識化社会」がこの混乱と混迷の元凶です。そして大衆の「知識」の捉え方こそ、変えなくてはならない最大の要因です。

 朝の連続ドラマ小説「お帰りモネ」。気仙沼の高校を卒業した主人公モネが、高校卒業後目標もあまりないまま、祖父が勧める登米の森林組合に就職し、その後猛勉強して気象予報士となって、地元に戻るというストーリ。東京の会社に在籍しながら地元に戻り、新事業を成り立たせるために悪戦苦闘。サンドイッチマン扮する漁師が、そんなモネを見ながら「俺、もう一度学校で勉強しようかな」「もう、遅い、無理だ」というやりとりに、現実世界の縮図が見て取れました。知識労働者になるには、本人の強い意志さえあれば、どこにいてもできます。しかし職場は東京。そこでスキルを磨いて地元に戻ってもそれを生かす場所は自分で作るしかない。一方地元の普通の人は、知識は学校で身に着けるもの。その学校で教える知識は、情報どまり。その情報習得も遍在だらけ。教える側で知識の意味を理解している人はまだ少数派。教わる側も学校の成績がいいとことが「知識化社会」を生きる術とばかり、少しでも偏差値の高い学校に進み、スタートラインを上げようとします。この今までの常識が通じなくなっていることが、私達を絶望させています。まだましと思いながら、認識を変えられないでいます。

 これが「無理ゲー社会」の大きな流れの中にのみ込まれているということです。「知識化社会」における知識の認識を変えることこそ、最善の方法であることを知らなくてはなりません。これはたった一人でもできることなのですから。