頭の中は、緊張というよりも何か滑稽な感覚になっている。
ほどなくして、坂木刑事が、コーヒーを2つ持ってきた。一つを私の前に置くと「いゃー砂糖は切らしていましたから丁度よかったです、今事務のものに買いに行ってもらいました」と笑いながら言うのである。
何か変。そんなことはどうでもいいのだ。何を聴取されるのかと思うと気が気ではない。
「それで私は何を・・・」と聞くと「まぁ 慌てないで下さい、一杯呑んでからにしましょう」と言った。
私はコーヒーカップを口に持っていき軽く一口だけ飲んだ、普通のインスダントコーヒーであった。
「少しは落ち着きましたか、顔色が悪そうですから・・・」と坂木刑事。確かに顔色がよいことはない。
昨夜はほとんど寝ていないし、今は取調べ室の中にいるし、当然だと思う。
「さて、高橋の件ですが、昨日も伺ったようにライターを思い出して欲しいのです」とライターの件で始まったのであった。そう言いながら坂木刑事は、パソコンを開いて電源を入れている。そして、服のポケットに入っていた透明な小さなビニール袋を出して見せた。中には黒の長方形のライターが入っている。
昨日、写真で見たものと同じような気がする。
「このライターなのですが、見覚えはないかなぁ」と鋭い目つきで聞いてきた。
さっき、コーヒーを持ってきた時の目つきとは全く違っていた。
「よく見て下さい」と私の目の前に置いた。何故かテレビドラマの一場面を思い出していた。
よく刑事役の人がこれ覚えていないかと差し出す仕草と同じであった。
「昨日も言ったように、あまり覚えてないのですが・・・」と同じように話すと、もう少し考えてみて下さいと言って部屋を出ていった。何度、思い出そうとしても記憶に残っていないのだ。勝手なことを言っても問題があるだろう。もし、私が、このライターですと言ったなら帰れるのだろうか。そんなことを考えていた。
すると、坂木刑事が、大きなビニール袋を持って入ってきた。中には黒いジャンパーのような服が入っている。
「では、この服に覚えはないですか」と私の目の前に突き出してきた。
手に取ってもいいかと聞いてから、手に取ってよくみたのだ。
確か、昨夜、高橋さんが着ていたものと同じような気がする。高橋さんは、薄手の黒いジャンパーを着ていたのだ。
「どうですか」と坂木刑事が聞いてきた。私が思い出したということを感じたようである。
「似ていますが・・・同じものかどうかは・・・」と答えると「そうですか。その時このジャンパーを着ていたのです」と言ったのである。その時というのは放火していた時のことである。
坂木刑事が言うには、そのジャンパーに放火した時の痕跡があるというのである。
「痕跡ですか・・・」と聞いたが、そうですと言ってそれ以上のことは言ってくれない。
人には言えない何かがあるのかも知れない。
と、坂木刑事が私の話している内容を、パソコンに文字として入力している。
そうか、私の話が証拠になるのだ。肝心な部分については、文字として入力しているのだ。
「何時まで呑まれていましたか」と聞いてきたので、小料理屋には2時前まで居たと答えると、それも入力している。何か高橋さんのその日の行動について詳しく調べているように感じた。
しぱらく、私と泉さんと高橋さんがどこで呑んだとか、何時に別の店に行ったとか、昨夜の私の行動を全て聞いてきたのだ。それを聞きながら文字を入力しているのだが、どうも遅い。文字入力が異常に遅いのだ。
「手書きではないのですか・・・」と聞くと、今はパソコンに文字を入力しているとのことであった。
テレビドラマでは後ろのほうにいる人が手書きしている場面があるが、最近は違うのかもしれない。
また、手書きの場合は犯人に対してのみで、私のような参考人はパソコンなのかもしれない。
「すいませんね。どうもパソコンは苦手でね」と笑っている。
何かその言葉で一気に緊張していたのが解けたようだ。
色々と聞かれて最後になりますがと言いながら「ライターは覚えてないですよね」と、しつこいのである。
「すいません」と答えると「やっぱ無理かなぁ、皆覚えてないと言うよな」と言うのである。
皆、ということは私以外で他の人にも聞いていたということだ。当然かもしれない。
「泉さんにも聞いたのですか」と聞くと「ああ、泉さんね。昨夜来てもらったよ」と平然としている。
だったら、泉さんから電話が昨夜かかってきてもいいのにと思った。そうしたなら、警察署でどんなことをしたのかがわかったのにと思った。その心を見透かしたように「一応、署に来たことは黙っておいてもらいたいからね」
と言うのだ。そうか、一人一人に聞いて証拠を固めていくのだと思った。皆が口裏を合わせることもできるだろうし、さすが、警察だと感心してしまった。
「もう少しですからね」と坂木刑事。
警察署に来てから1時間以上が経過していた。
それにしても部屋のドアは開けたままである。テレビならドアは閉まっているのが普通なのだがと思った。
ここまできたら何でも聞いてみよう「坂木さん、ドアは閉めないのですか」と「あぁ ドアね。田口さんは容疑者ではないし、ただの参考人だから、ドアを閉めていたら何か嫌な感じがするでしょう」と言うのだ。
なるほどと理解した。結構、警察は優しいのかもしれない。
「そうなのですか。テレビとは違いますよね」と言うと、くすっと笑って「同じこともありますよ」と言ってきた。
「あのう、コーヒーを出していただいたのですが、これは普通のことなのですか」と間髪入れずに聞いた。
「はぁ、容疑者にはないですよ」と大きな声で笑っている。
その声を聞いて何かほっとした自分がいた。
すっと椅子から立ち上がって坂木刑事は、ちょっと待っていてという仕草で部屋を出ていった。
何やらコピー機の前で右往左往している。何をしているのだろうか。若い刑事さんに何か聞いている。
私の座っている位置からは坂木刑事の行動が全て見えるのである。
今入力した文字をパソコンからプリントアウトしているのだ。
それに手こずっているようだ。
何か可笑しくなって一人笑いをしていた。残ったコーヒーを一気に飲み干すとともに安堵感が湧いてきた。
10分くらいたったであろうか。すいませんね待たせてしまってと照れながら坂木刑事が戻ってきた。
書類のようなものを持っている。
「これを私が今読みますからおかしいことがあったなら言ってください」と言って読み始めた。
私が聞かれたことや話したことの内容である。
聞いていると、昔の国語の時間を思い出してしまった。国語の先生が教室で生徒に何かの本を読んでいるような感じであった。
決して、流暢に読んでいるのではない。結構、ひっかかりながら読んでいる。
笑いたい気持を押さえることに必死であったがちゃんと聞いていないといけない。
笑ったりしたら失礼なのであろう。
やっと坂木刑事が全部読み終えた。
「間違いはなかったですか」と聞いてきたので「はい」と答えると「コーヒーもう一杯どうですか」と言うのだ。
そんなにここには居たくない。「今読んだものを正式な形にしてサインして印鑑か拇印を押してもらいますから、もう少し待っていて下さい」と言うのだ。
仕方がないと思いながらコーヒーを頼むと坂木刑事は「おい、コーヒーな。砂糖抜きで」と近くにいた若い刑事に指示したのだ。ほどなくして、戻ってきた。私はサインと印鑑を押したのだ。何故、印鑑を持っていたかというと私は常にバッグの中には印鑑をもっておくという人なのだ。ただ、それだけである。
「長い間、ご苦労様でした」と坂木刑事が言うので「いいえ、このような話でいいのですか」と聞くと「これでいいのです。ただ、ライターのことを思い出したらすぐに連絡して下さいね」とあくまでライターについてこだわっている。放火においては何で火をつけたのかということが重要なのだろう。
「ちょっと聞いていいですか」と一つの疑問を聞いてみた「高橋さんが本当に火をつけたのですか」と聞くと
「白状しましたよ。むしゃくしゃしていたので火をつけまわしたらしいですね」と言うのだ。
「昨夜、初めて会った時には感じのいい人だと思っていたのですが」と切り返すと「田口さん、人はそんなものですよ。私たちは色々な人を見ていますから何となく分かりますが」と平気で話している。
ついでだからもう一つの疑問をぶつけてみた「高橋さんは、どこにいるのでしょうか」と恐る恐る聞くと
「あぁ 3階の留置所にいるよ」と言うのだ。それと高橋という男は、過去に一度傷害で警察のごやっかいになったことがあるとも言うのだ。傷害とは恐ろしい人なのだ。何か身震いがしてきた。
昨夜の楽しそうな顔と傷害や放火とが一致しない。
「人は信じられないですね」と坂木刑事に言うと「まぁ、そんなもんだね」と笑っている。
仕事柄、坂木刑事にとってはそんなものなのかもしれない。
私にとっては、人間不信に陥りそうなのである。そして、ついでだから更に聞いてみた
「何年くらいの罪ですか」と聞くと「まぁ、裁判官が決めることだけど8年は入ると思うよ」と言うのだ。
8年も刑務所にいるのか、模範囚なら仮出所が早くなると聞いたことがあるので、最高で8年なのかもしれない。
高橋さんが出てきたなら二度と会いたくないし、会ったとしたら逃げ出してしまうと思った。
「では、今日はここで終わりです。また、何か聞くことがあるとは思いますがまた連絡します」と言うのである。
まだ、何かあるのかもしれない。しかし、一度経験したから今度は緊張することもないであろう。
そんなことを思いながら警察署を後にしたのだ。
12時前になっていた。安堵感を覚えたと同時におなかが空いてきた。朝から何も食べていない。
自転車に乗ると、家に戻らずに近くのラーメン店に向かったのである。
経験したくてもできないことを経験してしまった。
こんな経験は、そう多くすることはないであろう。
今年の最大の出来事になってしまった。今夜、だんなに一部始終を話そう。
生まれて初めて警察署で参考人聴取をされたのだから。だんなも経験したことはないはずである。
すぅっと肩の荷降りる感覚を覚えた。やっと重苦しい感じから開放されたのだ。
それにしても、放火した高橋という男は、私たちにもう一度やり直して、再起したいと語っていた。
何故、犯罪を犯したのだろうか。離婚したとは言え、子どももいるのだし。元の家族や親族に対して何と謝るのだろう。また、放火された人への賠償は一生かかって償わないといけないはずだ。
ただ、むしゃくしゃしたという理由だけで放火をしたということは一生の禍根になるだろう。
会社が倒産したからといって全ての経営者が犯罪者になることはない。
守るべきものがあるなら犯罪者になることは少ないと思う。守るべきものがないということは自暴自棄になってしまうのかもしれない。一人だけで行きていくということは犯罪者となる可能性があるのだろうか。
そんなことはないと思いたい衝動にかられてしまった。
人と人とのつながりが密であったなら犯罪はなくなると思いたい。
犯罪者への道を歩むということは所詮、大人になりきっていないのだろうと私は思った。
私も、いつどうなるかは分からない。分からないのだが、愛する人を裏切ったり他人に危害を加える人間だけにはなりたくない。どんな状況になったとしても絶対に人としてやってはいけないことがある。
今回の事件で心に強く刻み込んだ。
目の前に、人気のあるラーメン店が見えてきた。
すでに、外には行列ができている。このあたりでは人気の店なのだ。