3分も歩いただろうか、路地裏の小さな店の前で泉さんが立ち止まった。ここの店なのか。
「ちょっと待っていて」と言って、泉さんがドアを開けて店の中に入っていった。私は外で少し待たされて格好になった。「田口さん、いいわよ」とドアが開いて声をかけてきた。ドアを開けると、カウンターに3人の男性と、テーブルに3人の女性が座っていた。どうやら、私たち2名の席を作ってくれていたようである。
カウンターに座ると、ママさんらしい人が軽く挨拶をして手拭を出してきた。年のころなら50才くらいの綺麗なママさんだ。他に女の従業員が2人カウンターの中にいた。
カウンターに座っている男の客の一人が泉さんに軽く挨拶をした。どうやら、知り合いのようだ。
常連として泉さんが来ているのだろうか。ボトルをキープしているくらいだから。
先ほどの居酒屋とはうって変わって薄暗く何やら怪しくもありスリルもありそうな店だ。
泉さんは、いつもここに来ているのかと思うと何やら羨ましくも思った。
「ひとみさん、焼酎でいい」といきなり下の名前で呼んだので少しあせってしまった。何故、田口さんではないのかと泉さんにさりげなく聞いてみると「上の名前で読んだら、どこの人かとか分かってしまうから」と言うのだ。
私としては、なるほどいうことに気付いたのだ。上の名前なら問題がある場合もあるかもしれないが下の名前なら分かりづらいと思う。さすが、このような店に慣れていると感心してしまった。
ママが出してきた焼酎のボトルの首には、サッチャンと書いたプレートがかかっていた。
二人で、焼酎を呑みながら、歌を歌うということになった。誰も歌は歌っていないので、早いもの勝かもしれない。
早速、ママが歌本を持ってきたので、泉さんから歌うようにお願いしたのだ。どうも最初は照れてしまう。
「じゃ、私から歌うわよ」と泉さんがママに曲を伝えた。
なんと演歌である。泉さんのイメージからは想像ができない。何かポップス系を歌うという雰囲気だと思っていたが、それも都はるみなのだ。かなり昔の曲だと分かった。子供のころに聞いたことがある曲である。
曲のイントロが流れて歌いだしにビックリした。うまい、とても歌がうまいのである。
ヘタな演歌歌手よりも上手なのである。聞きほれてしまった。と、次は私ということは、とても恥ずかしいと感じた。泉さんの歌が終わると客から喝采の拍手の嵐である。先ほど挨拶をした男の客が大きな声でサッチャン、最高と叫んでいる。泉さんは軽く皆に挨拶して椅子に座った。次は私。
ききほれていたので曲が決まっていない。
「ひとみさん、決まったの」と泉さんがせかす。「えっ、まだ、歌がうますぎて次は辛いわ」と言いながら歌本をめくって探しているのは山口百恵だ。
いきなり、こんなうまい歌を聴かされては困ったものだ。ママに曲目を伝えると曲が始まった。
何やら恥ずかしくて、あまり覚えていないのだが、歌が終わった瞬間に客からの大きな拍手で我に返った。
「ひとみさん、凄いじゃないの、百恵の歌」と泉さんが誉めてくれたのだ。さらに、ママからもうまいと誉めてもらった。多分、社交辞令だと思うのだが何だか嬉しいものである。
「そちらの方も歌凄いね」とカウンターに座っていた泉さんの知り合いも言ってくれた。
年のころなら、50才くらいだろうか。紳士とは言えないが何か職人さんのような感じの人だ。
「とんでもないです。何年かぶりなのですよ」と言葉を返した。言葉をやり取りするということは知り合いになった感覚になるものである。
それから泉さんは違う演歌歌手の曲を歌ったり、私は百恵を次々に歌ったのであった。
その間に他の客も歌い始めた。しかし、泉さんには絶対にかなわない。しかし、拍手をしてくれたので、こちらも拍手をしないわけにはいかない。本当は、拍手はうまい人だけでいいと思っている私は心の狭い人なのかもしれない。でも、そうだと思っている。
時間が気になって腕時計を見たら、12時近くになっていた。明日のことが気になったが酒のいきおいで、もう少しくらいはいいかと思った。でも、一回は家に電話しておかないといけない。だんなも子供も心配しているかもしれない。店の外に出て携帯で家に電話をしたら、だんながすぐに出た。
理由を説明して1時までには帰るということを伝えた。なんとか納得してもらったのでもう少しは居られる。
外に出たので何か少し酔いが覚めたようでもあった。金曜日の夜ということもあって今夜は遅くまで呑む人が多いのだろうか。
店の中に入ると泉さんと例の客が楽しそうに話している。どうやら以前からの知り合いのようだ。
と、ドアが開いて入ってきた人に驚いてしまった。艶子さんが服を買った婦人服の店の店長であり、泉さんの弟の久保さんだ。「なんだ、いたのか」と泉さんにバツが悪そうに話している。「あんた呑んでいてもいいの・・・」と泉さんが話すと「今日はいいんだ」と言ってカウンターの端に座りながら私に気付いて挨拶をした。
「この前はどうも・・・」と言うので「こちらこそ」と言葉を返した。
「ひとみさん、うちの弟知っているんだっけ」と聞いてきた。
「この前、知り合いの付き合いで行ったことがあるから・・・」と話すと、そうなんだと理解したようだ。
先日、泉さんから弟の店の売上がよくないから協力して欲しいと言われたことも思い出した。
久保さんは、女の子と楽しそうに会話している。私たちは、例の男性と3人での会話になってしまった。
この男性は、高橋さんという工務店で働いている人らしい。言葉になまりが少しある。どうやら東北のほうの方のようである。格好のわりには若く見えるような気がするので、呑んだ勢いにまかせて聞いてみた。
「おいくつなのですか」と、「42才です」よはり、50才にはなっていなかった。私のだんなと同じ年だ。
主婦というものは変なもので、自分のだんなと他の男の人とを比較してしまう。特に年齢においてはそうである。
だんなと比較してだんなのほうが若く見えるということは何か安心した気持になった。本当に単純なものだ。
その間に他の客は帰ってしまって、店には私たち3人と久保さんだけになっていた。
もう、1時になりかけようとしていたので、皆に挨拶して出ようとしたら「もう一軒いいじゃない、少しだけ、僕がご馳走しますから」と高橋さんが言ってきたのだ。そんな時間はないという顔をすると、泉さんが「ひとみさん、30分だけ」と言うのだ。助け舟かと思ったのだが全く違っていた。家のことが気になるのは当たり前なのだが、こんなに楽しいこともめったにないので。また、外に出て家に電話をかけたら、誰も出ない、だんなは寝てしまったようである。3回かけても出ないので諦めてしまった。何かあったなら携帯にかかってくるだろうと思って店に戻った。
本当に少しだけという約束で、高橋さんに話すと、歩いて1分の店だからというのである。
泉さんは行く気満々なのだ。この泉さんという奥さんも不思議な人である。だんなと子供が家にいるのに平気なのだろうか。いつも、この調子で家を空けているのだろうか。それだけ、だんなの理解があるのだろうか、と思ってしまった。
お会計をして店の外に出た。2500円だったが、次の店は高橋さんのご馳走ということなので気分がいい。
歩くとすぐに店があった。どうやら、小料理の店のようだ。
引き戸を開けると、60才くらいのママが笑顔で迎えてくれた。
ここでの会話の中で、高橋さんの色々なことが分かったのである。
昔は、岩手県で小さいながらも工務店を経営していたというのであるが、知り合いの会社の連帯保証人になったばかりに知り合いの会社が倒産した時に大きな負債を背負って連鎖倒産したというのだ。
それが元で破産宣告を受けて家庭は崩壊、おまけに離婚をするはめになってこちらに出てきたという悲しい話であった。もう、3年前のことらしい。
そんな話を聞きながら、泉さんと私は、高橋さんの今までの人生の話を聞いていた。
他に客はいない。高橋さんは、また、もう一度再起して工務店をやりたいと強く語っていた。