どうやら僕に勧めるようであった。しかし、生まれてこのかた酒というものを呑んだことがない。ないというよりも、一度とうさんのビールを黙って呑んで、こんなにまずいものを美味しいとは不思議だと思っていた。

僕の左横にいた人が、席を替わってくれるという、つまり、千葉さんの横に座れという指示であった。

断る理由もないし、同じアパートの人なので何かと相談にのってくれるかもしれないと思い千葉さんの横に移動した。それにしても定食屋なのに皆酒を飲んで騒いでいる。何か居酒屋のような感じがしていた。

千葉さんがお猪口に酒をついでくれ「今後もよろしくな」と僕の目を見ている。

僕も「こちらこそ、新入りですが宜しくお願いします」と一礼してお猪口を口に運んで呑んでみた。

まずい、まずい、こんなものは呑めない。と、思ったが、そんなことは言えない。

「日本酒は初めてなので・・・」と少しむせ返ってしまった。

「そう、無理することはない。自然に呑めるようになるから、俺もそうだった」と言ってくれた。

「少しでも呑めるようにならないと駄目でしょうか」と聞くと「少しは呑めたほうがいいかな」と笑っている。

やはり、そうなのであろうか。酒ぐらい呑めないと駄目だと烙印を押されるのかもしれない。

そう思うと「すいません、僕にも日本酒の熱燗を一本」と春子さんに注文してしまっていた。

「井上さん、大丈夫?」と春子さんが聞くので「たぶん・・」と答えてしまった。

「井上さん、無理することないよ、今日でなくてもいいから」と千葉さん。

「いぇ、今日がいいのです」と少し突っ張ってみた。

とにかく楽しいのである。他の客は何かの話で盛り上がったままである。

誰も帰ろうとしないのだ。この店は何か心を暖かくしてくれる不思議な力があるように思う。

こんな僕でも、初めてなのにこんなにも楽しくなってしまうのである。

春子さんが、お猪口に酒を注いでくれた。それを一気に呑み干した。

舌全体に苦味やアルコールが広まって痺れるような感覚だ。

それでも無理して、もう一度自分で注いでみて呑んだ。

最初よりは、呑みやすくなったような気がしてきた。美味しいとまでは言わないが何とか呑めると思う。

千葉さんにもさっきのお礼として注いであげた。

「井上さん、あんた呑めるよ、心配ない・・・」と千葉さんが目を丸くしている。

「有難うございます。何とかなるような気がしています」と言うと「顔に全くでないね」と千葉さん。

顔に出ないということは酒に強いということだと千葉さんに教えてもらった。

どうやら、それで気をよくしたようで、それから5合も呑んでしまったようである。

しまったようであるというのは、その後の記憶がないのである。

5合呑んだということも翌日分かったことであった。

次の日の朝7時前、頭の痛みで目覚めると僕の部屋の炬燵の中であった。

どうやら、千葉さんと鈴木清二さんが僕を部屋まで連れて帰ってくれて炬燵に寝かせてくれたということを、春子さんに教えてもらったのであった。お金もちゃんと支払ったようであるが、その後、倒れるように寝たということであった。また、大失敗をしてしまった。千葉さんや他の客にも迷惑をかけてしまった。

頭が少し痛い、これが二日酔いというものであろうか。炬燵から這い出ると台所にいき水を一気に3杯も飲んでしまった。こんなことを母が知ったなら、どんなにか悲しむだろうと思うと心が締め付けられるように思った。

初めての一人暮らしの日から二日酔いになるとは、とんでもないことである。

今日は、昼から明日の入学式の下調べに大学に行かないといけない。

アパートから、どんな道順でいったなら一番いいのかを調べないといけないのだ。

こんな調子で行くことができるのであろうかと考えると心配になってきた。

昼前になっても頭は痛い。痛いし胸はムカムカして今にも吐きそうだ。

2時前くらいになって何とか少しはよくなったようだ。

駅に向かう途中で昨夜の定食屋に寄った。

そこで昨夜のことを聞いて理解したのであった。ゆっくりする時間はない。昼でも食べていきなさいと春子さんは言ってくれたのだが、食べる気にもなれない。まるで食欲がないのである。

胃の中は、大量の日本酒がまるで澱んで濁っている沼の水のように感じた。

駅に着き電車に乗ったが何か目が回っているような感じであった。池袋に着くころにはかなり良くなっていた。この時は、もうお酒は呑まないと心に誓っていたのだが、実際には何日も続くことはなかったのであった。

池袋駅で山の手線に乗り換えて数分で大学のある駅に着く。そこから歩いて10分ぐらいであろうか。

どうやら地下鉄も利用できるということであるが、田舎者の僕にとって地下にもぐっているというのは何とも不安であるが、どちらのほうが電車賃が安いのかと考えてみようと思い駅の相談窓口というところで聞いてみた。

そうしたならば、どちらもあまり変わらないということであったし、国鉄のほうが何かと便利であると思い、地下鉄利用は止めたのであった。便利ということはキセルができるということだ。高校の時にも何度かキセルをしていた。こんな僕でもキセルぐらいの知識はある。

大学までの道のりは色々な店が並んでいた。食堂が多いのには驚いてしまった。さすが、学生の町である。

大学に着くと周りを一周してみた。その周りにも食堂が林立していた。

何人もの学生が歩いている。そして校内に入ってみた。受験の時に来たことがあるので不安はない。

そうこうしているうちに2時間が過ぎようとしていた。あたりは薄暗くなり、町の灯りがチラホラと瞬いている。

その灯りを見ていると何故だかホームシックになってしまう。どうやら僕は夕方の暗くなっていく光景を見るとセンチメンタルになってしまうということを実感していた。

心の中では、早くアパートに戻りたいが、しかし、誰かと話もしたい。昨夜の千葉さんにもお礼を言わないといけないし、他の部屋の人にも越してきた挨拶もしないといけない。

そう思うと自然に足はアパートに向かっていた。夕方の混雑している電車の中で、ふと思うことがあった。

人見知りだし人の会話は好きではないし、こんな僕でも大学生活を送ることができるのであろうか。

電車の中では、仲の良いカップルが楽しそうに話している。僕にとって同年代の女性と話すということは皆無といっていいほどなかったのである。僕も男だから女性に興味がないということはない。しかし、かあさんのような女性であったならばいいと思うのであるが、そうではないタイプの人ならばどう対応していいのかが分からない。

そんなくだらないことを電車の中で思っていた。本当は明日の入学式のことを考えたり、勉強のことを考えるのが普通であると思う。しかし、こんな時に女性のことを考えるということは至極不謹慎のようだと思うが、頭の中に思い描いてしまうことは止められない。池袋から乗り換えた電車の中でも同じことを考えてしまっていた。

駅に着くと、自然と早足になっていた。早く部屋に帰りたい。さして、昨夜は風呂にも入っていなかったので顔が少しテカテカと光っていると思うし、下着も代えていない。部屋の戻ると、すぐに風呂を沸かした。

風呂を沸かしながら、今日は何も食べていないということに気づいたのだ。

そう思うとお腹がグーッと鳴ってしまっていた。ご飯も炊いていないし、何も買っていないので冷蔵庫は空である。

仕方がないので、かあさんが送ってくれたキャベツを丸かじりすることにした。塩をかけながらの丸かじりである。

少しは空腹が満たされたように感じた。そして、風呂に入ったのである。

何と暖かいのだろう。風呂のありがたみをひしひしと感じていた。

風呂から出ると8時になっていた。すぐに着替えてアパートの人たちに挨拶しようと思い、かあさんが送ってくれた新品のタオルを5本手にして部屋を出た。まず、千葉さんのところに行ってみたが留守。順番に部屋を回ってみると3つの部屋の人がいたので挨拶をして部屋に戻ってきた。皆、僕よりも年上で会社勤めという感じの人たちであった。2階の端は、女性であったので少しオドオドしながら話してしまった。その人にとっては変な人が越してきたと思ったに違いない。