後で分かったことなのであるが、タンクは天井裏の中に隠してあるのだった。

畳半畳もない狭いトイレであるから便器のすぐ上に水を溜めるタンクを設置できないということであった。

もし、便器のすぐ上にタンクを設置したならば、しゃがんだ時にタンクが顔に当たってしまうのだ。

後に、この話は、1階に住んでいる千葉さんが教えてくれたのであった。

次に、風呂に水を入れてガスコックをひねってみた。一応、説明書というものを大家さんに貰っていたのでその通りにやってみた。家では全ては母がやってくれていたので何にも知らない。

風呂を沸かすという行為も初めてであった。これは簡単にできたので何か大きな喜びを感じてしまった。

30分くらいすると、ピーという変な音がして、風呂が沸いたということを知らせる装置がついていた。

今では当たり前だと思うが、シャワーなんてものはない。

ただ、風呂の中の水が沸くだけで、お湯は風呂の中から汲んで使うということしかできなかった。

つまり、ちょっとだけ体を洗いたいという時にも一度お湯を沸かさないといけないという、ある意味においては無駄なガスを使うということであった。しかし、贅沢はいっていられない。風呂があるだけでもいいと思うしかないのだ。そんなことをしていると、ドアをコンコンと叩く音がする。

運送屋の人が九州からの荷物を持ってきたのだ。

炬燵と布団などを部屋に運んでくれた。

部屋を片付けることもなく、公衆電話へ走った。かあさんへ連絡しないといけない。

家へ連絡すると、今度は妹が出た。「兄ちゃん、大丈夫・・・」と聞くので「一人で定食屋に入って生姜焼きを注文して食べたよ」と言うと「そんなの当たり前だよ、そんなことが出来ないなら暮らしていけないよ」と笑っていた。

かあさんはと聞くと、買い物に行っているということであった。

かあさんの声を聞きたかったのであるが、夜もう一度電話するからと伝えて電話をきった。

そして、部屋に戻り荷物の片付けを始めた。

夕方になっていたので部屋の中は寒い。陽は午前中の少しだけ当たる部屋だ。

簡単にいうと、東向きの部屋ということになる。だから午後は全く陽がささない。

まぁ、昼間は学校に行っているから問題はないと、かあさんも言っていた。

炬燵を部屋の真ん中において、布団は押入れの中にしまい、僕の服や下着も押入れの中にしまった。

かあさんから貰った、裁縫箱は部屋の隅に置いた。この裁縫箱の中にとうさんのライターや文房具を入れることにした。つまり、文房具入れとして使うことにしたのだ。

台所にガス台と炊飯器を置いて、食器は荷物の入っていた段ボールを加工して食器棚にした。

荷物の中に一升ばかりの米と少しの野菜が入っていた。

それよりも笑ったのは、かあさんが使っていた料理の本が2冊入っていた。これを見て料理の勉強をしなさいということだろう。

外は真っ暗になっていた。九州なら、この時間はまだ明るいのに関東では陽が沈むのが早い。

外が暗くなると何だか悲しくなってしまった。今夜は一人で寝るのだ。

今まで家族と一緒にいたのに今夜からは一人ぼっちになってしまうのだ。

自分が望んでこちらに来たのに、もうホームシックにかかってしまったようだ。

初日からホームシックになってしまうとは情けないと思う。そんなことを考えていたら公衆電話に走っていた。

かあさんの声が聞きたい、何でもいいから話したい。

今度は、かあさんが電話に出てくれた。荷物が着いたことは妹に聞いていたから、特別話すことはないのであるが、何でもいいから話したいと思い、米の研ぎ方や炊飯器の炊き方などを矢継ぎ早に聞いた。

「メモを渡してあるから、それを見なさい。その通りにすれば大丈夫」と、坦々と言う。

定食屋に一人で行ったことを聞いてないのであろうか。そして、それを誉めて欲しいと思ったのだが、結局、かあさんの口からは定食屋の話はなかった。妹が話していないのかもしれないと思い「近くの定食屋で生姜焼きを食べたよ、それと、そこの人が優しくしてくれたよ」と少し自慢げに話すと「よかったね・・・」と一言であった。

どうして誉めてくれないのだろうか。以前は、何か初めてのことをしたなら誉めてくれたのに。

「もう、寒いから部屋に戻っていなさい。明後日は入学式があるから、ちゃんと出席しなさい」と何かつっけんどんのような感じで言う。

僕は、分かったと言って電話を切った。電話を切ってから何故か涙が止らない。

かあさんが今までとは違ったように感じて涙が止らなかったのだ。

後に、僕が一人で生きていけるように、少し突き放すということを、とうさんと話し合ったようであった。

そんなことを僕は知らないから、このことがしばらく頭から離れなかった。

部屋に戻って、しばらくボーっとしていると、ドアを叩く音がする。

泣きながら歩いて帰ったので目は真っ赤になっていた。

今頃誰だろうと思い、用心深い、かあさんに言われたようにドアチェーンをかけて開けた。

そこに立っていたのは、昼間の大家さんであった。

かあさんが大家さんに贈り物をしたようであった。そのお礼で来たのだ。

大家さんは僕の顔を見るなり、何かあったの?と聞いてきたので、目をこすり過ぎて赤くなったと嘘を言ってしまった。どうやら、息子のことを宜しくお願いしたいということと九州の産物を沢山送ってきたらしい。

「おかあさんから頼まれているから何かあったら遠慮なく相談して。当分は不便だと思うけど慣れれば大丈夫」と言う。何かは歯の言葉を聞いているようで胸が熱くなってしまった。

大家さんは、それだけ言うと帰っていった。既に、夜の7時になろうとしていた。

その後、何とか部屋の片付けは終わった。

片付けが終わると何だか無性に人恋しくなってしまった。片付けの間は何も考えなかったのだが、何もすることがなくなると無性に寂しさが湧いてきた。

昼間の定食屋はまだ開いているのだろうか。誰でもいいから話がしたい。

そう思うと、足は定食屋に向いていた。

店に近づくと電気がついている。どうやらまだやっているらしい。暖簾もかかっていた。

昼間と違って、いきなり戸を開けた。

店内には数人の客が酒を飲んだりして楽しく話していた。僕が入るといっせいに客が見る。

おばあさんが「よく来てくれたね」と言って、カウンターの真ん中に座るように勧めてくれた。

真ん中というか真ん中しか席が空いてないのである。

「何にする」とおばあさん。「何か暖かいもの・・・」と言うと「鍋でも食べるかね」とおばあさん。

どうして暖かいものと言ったのかは分からないが、何か暖かいものを食べたいと思っていたのが口に出たのかもしれない。「鍋焼きうどんでいい・・・」と聞いてきたので、こくりと頷いた。

店の中の客は常連のようで話がはずんでいた。

その中にいて僕は完全に孤立していたかのようであった。それは無理もない。今日初めて来たのだ。

しばらくすると、おばあさんが「おまちどう、大盛りにしておいたけど大丈夫」と言う。

勝手に大盛りにされてしまったのか?お金がもったいない。そんなことを勝手にしないでほしいと思っていると「普通の料金でいいからね」と笑いながら話した。鍋焼きうどんは、450円であった。

店内のメニューには、大盛り100円増しと書いてあるので100円を得したことになる。

何だか嬉しい気持になってきた。確かに大盛りである。

鍋の中にいっぱいの具といっぱいのうどんが僕の寂しい気持を解放してくれたようだ。

猫舌の僕にとっては、早く食べたいと思うのだが熱くて食べられない、そうこうしているうちに熱さで咳き込んでしまった。店内に響き渡るほどの咳である。

おばあさんがあわてて水をコップに注いでくれ「ゆっくりでいいからね」と背中を擦ってくれている。

その背中の擦りが、かあさんの手のような感触で、熱いものがこみ上げてしまった。

今度は、咳と泣き声になってしまっていた。鼻水は出てくるし、しゃくりあげてしまうし最悪の事態である。

周りの客は何事かと僕のほうを見ている。とても恥ずかしい気持と人前で泣いたことがないので、どうしたらいいのか分からない。それだけで全身が硬直してしまった。

「みんな、この人は今日九州から初めて来たらしい。みんなも優しくしてあげてな」と、おじいさんが助け舟を出してくれた。テーブル席から「俺も青森から10年前に来た時を思い出すな」と職人風のお兄さんが話しかけてきた。

「俺もそうだよ、毎日泣いていた」とスーツ姿の人も間髪入れずに話しかけてきた。

「はい・・・」と僕は言うしかなかった。

隣に座っていた人が「うどんが伸びるよ」と笑いながら話しかける「はい、今食べます・・・」と言いながら少し冷めてきた鍋焼きうどんの汁をすすった。

このようなことがあったからであろうか、皆が昔こちらに来た時のことを話し始めている。

何やら結構盛り上がってしまったようであった。

「お客さんの名前は」とおばあさんが聞いてきた「井上といいます」と答えると「鈴木だよ」とおばあさんが答えた。おばあさんが鈴木春子、おじいさんが鈴木清二ということも分かった。

鈴木さんという人だ。全国的に鈴木さんという人名が多いことは知っていた、しかし、僕の田舎には鈴木さんという知り合いは一人もいなかった。多分、九州には鈴木さんという人は少ないのかもしれない。

そんなことを鈴木さんに話してみたところ、また、この人名のことで皆の話が盛り上がってしまった。

僕の話したことが皆の話題になっている。

こんな経験は生まれて初めてのことであった。何かとても嬉しいやら恥ずかしいやらではあったが、何か心地よい感覚を味わったことも事実であった。人との会話がこんなにも楽しいのか。こんな僕の話でも人は聞いてくれるのであろうか。

「井上さん、端に座っている千葉さんが、同じアパートだよ」と春子さんが教えてくれた。

春子さんのいう方向には、年のころなら30才くらいの職人風の人が静かに酒を飲んでいた。

皆の会話は聞いているのだが、仲間には入っていないと気付いた。一人でのんびりと酒と肴を楽しんでいるように見えた。

「千葉です」と僕のほうを見て会釈した。「井上です、今日越してきました。1階の端の103号の部屋です」と言うと「俺は101の部屋だよ」どうやら、僕の部屋の反対の端の部屋のようである。

「今日なの」と聞いてきたので「はい、今日からお世話になります」と告げると「あぁ、こちらこそ・・・」と以外とぶっきらぼうな返答であったが、目つきは何となく温かみのある人のようであった。

すると突然、「君も酒でも呑むか」と千葉さんが、春子さんにお猪口を頼んでいる。