何を作っていたのかというと大概は、家族の服であった。かあさんの趣味でもあったのかもしれない。

かあさんは、何の趣味もなく何を欲しいとかいう人ではなくて、ただ、家族の為に一日中家事をこなしていたと思う。祖父母とはけっして仲が良いことはなかった。僕が中学生のころになると、僕たち親子と祖父母とは別の食卓になっていた。何が原因でそうなったのかは、はっきりとした記憶はない。

ただ、かあさんと祖母との言い争いが日ごとに増えていった記憶があるのが中学生からだと思う。

一つの台所で、時間を決めて、かあさんと祖母が交代で食事を作り出した。

だから、僕は中学2年からの食事は祖父母と一緒にしたことがない。

家庭の中も険悪な雰囲気になってしまっていたが僕としては何をするということもなく親の態度に従うしかなかったと思う。家族でありながら食卓が違うということは何か切なくて哀しいものであった。

血が繋がっていないということも起因しているのだろうか。血というものはそんなにも関係しているのだろうか。

その時は、ふと考えたりもしたが僕の生活にとって何も影響しないということで無視していたのかもしれない。

そんな何事にも無関心な子であった。

それが、大学進学ということを考えるようになって変わっていったのだ。

高校3年の夏からは、猛勉強を始めた。目標とする大学はあったのだが、今の成績では逆立ちをしても無理であった。しかし、何としても合格したいという気持が日々強くなっていった。

何とか合格ラインまでは到達したが、実際の受験では不合格となった。

結局、浪人することになったのだ。浪人といっても何か変わることはない。日々の生活が変わることはないのだ。

唯一、嬉しかったことは、成績が上がっていくという快感を覚えたことだろう。成績が上がるということは周囲の目も変わってくる、予備校の中においても一目おかれるという立場にもなった。

そうすると人間というものは不思議なもので、更に上のレベルの大学に行きたくなるのである。

僕も同じように感じ始めていた。そして、僕の目指す大学の学部は東京にあることが分かった。

ただ、東京での生活というものは想像することもできないし、一人暮らしということも出来ないだろうと思っていた。その当時においても、かあさんと一緒に買い物に行かないと不安になるという性格は変わっていなかったのだ。

これほど気の弱い僕が東京で一人暮らしが出来るわけがないのは明白であった。

それでも一生懸命に勉強していた。どうやら、かあさんと、とうさんは地元の大学に進学するだろうと思っていた節があった。

この子は、家から離れて暮らすことなどは無理だと思っていたに違いない。

僕が、東京の大学の話をした時には、青天の霹靂だと思ったに違いないのである。

何とか親を説得して、東京の大学へ進学を許してくれた。そして、春には合格ということになってしまったのだ。勿論、受験の時は母が付き添いで東京に来たのは言うまでもない。

初めての東京に驚いてしまった。初めてということは、高校の時の修学旅行が中止になったのであった。何故かというと、修学旅行の前に僕の高校で大きな不祥事が発覚して取りやめになったのだ。そんなことがなければ、修学旅行は東京見学であったのだ。

東京は大きいところであった。母は昔一度何かの旅行で来たことがあったようだ。

とうさんは会社の出張で幾度となく来ていると聞いていた。

合格が決まって、その大学に入学するということは、東京で暮らすということである。

ついに一人暮らしとなるのだ。

一人で何もできない僕にとっては、未知の新世界へ行くということと同じである。

いくら日本人同士で言葉が通じても、僕にとっては全く未知の世界なのだ。

かあさんが付き添って再度東京に来てくれ、入学の手続きや部屋探しをしてくれた。

部屋といっても、貧乏な家なので、家賃が2万円以下でないと無理であった。

東京都内で、家賃が2万円以下というとまともなものはない。

大学の寮もあったのだが、人とうまく交われない僕にとっては一人のほうが断然楽なのだ。

そこで、都内ではなくて隣接している埼玉県で探すことになった。

2日目の夕方に部屋は決まった。

とある駅から15分のところにある6畳と風呂と便所がついた築30年以上の日当たりの悪い1階の部屋であった。

1階には3つの部屋があり、2階にも同じ数の部屋がある木造のアパートだ。

不動産屋のいうことには、学生は一人もいなくて、皆、会社員ということであった。

風呂がついているだけでもいいと不動産屋が母に話していた。風呂がついているということよりも近くには風呂屋が一軒もないということを後で知った。アパートの周りは畑ばかりの田舎であった。

ここから大学へ通い、帰るということである。大学へは片道1時間はかかると思う。

3日目に母と家に戻った。戻りの夜行列車の中は何かとても楽しくて母と旅行している気分になっていた。

東京へ行く時の列車の中では何か気まずい雰囲気があったのだが、東京で大学生活を送るということが決まったので少しは気が楽になったのかもしれない。

かあさんも何かがふっ切れたのだと思う。笑顔がとても嬉しかったことを記憶している。

かあさんにとっては僕がいないということが寂しいのだと思うが、僕にとっては新しい旅立ちが待ち遠しいような不安なような気持が交差していた。

家に着くと、とうさんが迎えてくれた。妹も何か寂しい顔をしていたが、兄ちゃん元気でいてよと柄にもない言葉をかけてくれた。祖父母も喜んでいたようだ。

その夜、とうさんは僕にライターを手渡してくれた。僕が二十歳未満でたまにタバコを吸っていたのを知っていたのだ。タバコを吸うというのは、何かのストレスの発散であったのかもしれないし、何かの不安、不満に対しての僕なりの攻撃であったのかもしれない。

電子ライターというガスの補充ができるものであった。色はところどころ剥げている金色だ。

そして、そのライターは、とうさんの目を盗んで、庭で紙くずや木切れに火をつけていたものであった。

子供のころに、庭で何かに火をつけて遊ぶのが好きであった。大きな鉄の鍋に紙や木を入れて燃やすのが好きらのだ。燃えているものを見ると何か気持がすっきりとした。僕の一人遊びでもあったのだ。

とうさんはそのライターを持っていけというのだ。父のお気に入りのライターであったに違いないのだが、僕にくれたのだ。かあさんは、僕に裁縫箱を持っていけという。

かあさんのお気に入りの裁縫箱だ。大きさとしては、30cm四方くらいだと思う。引き出しが4つついている。

古臭い木造りのものであった。かあさんが養女になる時に実母に貰ったものだという。

昭和23年あたりであろう。

かなり年期の入ったもので、元の色はこげ茶色だと思うが今はかなり剥げてしまっていて茶色になっていた。

それを持っていきなさいという。僕が、そんなもの持っていっても何を入れるのかと聞くと、何か役にたつからと

勝手に、東京へ送る荷物の中に入れてしまっていた。

5日後には、東京に行かなければいけない。そして埼玉のアパートに住む。

5日しかないのだ。6日後には大学の入学式がある。

かあさんが一緒に出席してくれると思っていたのだが、お金もかかるし僕だけで行ってくれという。

とても不安で、どうして暮らしていけばいいのかが分からない。不安は大きくなっていた。

お金もないので、電話も引くことはできないし、洗濯機も買えなかった。唯一、買ったものは中古の冷蔵庫だけなのだ。それ以外は、家から送ってくれるということなのである。

送ってくれるといっても、僕の布団と小さな炬燵と食器や炊飯器等であった。

僕がアパートに着いた日の夜に運送会社が届けてくれるという手筈になっていた。

そうしないと、夜は布団も何もない部屋で寝るしかないのだ。本当に運送会社が来てくれるのだろうかと思うと不安が増してしまう。

何もできない僕に、かあさんが家事についてのメモ紙を作ってくれていた。