陸上の為末大さんの記事を読んで、考えたこと。
スポーツでも芸術でも仕事でも、多分どんな世界でもありますよね、これって。
若い時に何かの偶然でパッと上手く出来てしまった、勝ってしまった、という様な成功体験。
僕は幸か不幸か、そういう体験もなく地味に、地道にせざるを得なかったので、こういう成功体験をせずに済んだけど、仲間でこういう姿は時折、見かけました。
以下、為末さんの分を転載。
長文ファンの皆様おはようございます。
「再現性のない若年期での成功体験」がもたらす負の影響について今日はお話しします。
成功体験そのものは人に自信をもたらしてくれるので良いものだと思います。ただ、人生の早い時期に、偶然手に入れてしまった成功はその限りではありません。
例えば「20代でなんらかの形で成功した」人がいるとします。最高の気分でしょう。その高揚感の中で「成功は難しくない」という認識が生まれることがあります。
しかし、成功は複雑な要因に支えられています。自分自身の状態、社会の流れ、その時の勢い、それらが組み合わさり成功しています。
人間は因果に囚われる生き物です。何かが起きたなら何か原因があるはずだと考える。成功したのならその原因があるはずだと考えます。そして、自分なりに発見したそれを成功の要因だと決定します。しかし、先ほど申し上げた通り成功を取り巻く環境は複雑ですから、それほど簡単に成功の要因は見つけられません。
ここでの「成功の秘訣」は誤学習とも言えます。環境が変わっても通用する強い秘訣ではありませんから、再現性がありません。もしかするとただの迷信だった可能性もあります。成功した時にたまたま身につけていたシャツを「成功のシャツ」と信じるかのように。
ある程度、うまくいかなかった経験がある人であれば、そう簡単に「成功の秘訣」には飛びつきません。要するに「成功」と相対化できるだけの「たくさんの失敗」があればよいわけです。ところが若い時にはそれほど多くの失敗がありません。
100回に一回当たるくじを一発目から引いただけかもしれませんが、本人にとっては一発一中ですから、これから先100回当たりを引ける感覚に陥いります。
「その後の人生で修正すればいいではないか」と思いますが、早い段階で成功し評価を得ると、自分の考えは正しいという感覚が残ります。結果というのはそれほど強烈です。結果が説得力をもたらしてしまい、修正しにくくなります。外からのフィードバックも入りにくい。
ここからの脱却は「あの成功は偶然であった」と自ら認めることだと思います。ただ、これを受け入れるのがなかなか大変です。言葉上はわかったようになれますが、心の底からあの成功を忘れるには時間がかかります。
やろうと思えば、再現できる範囲。そこまでが自分の実力です。それを再び積み上げるために、一旦現状の自分に自己認識を合わせる必要があるのだと思います。
こういった体験の後、上手く修正が出来た人とそれが出来なかった人の両方を見てきましたが、その差はなんやろう?ってよく考えていました。
一言で言えば、「客観性」を得られたか?でしょうし、その源となるのは「謙虚さ」であるのだろうと思っています。
過去の成功体験、そしてそれに付随して身に付いてしまった「思い上がり・傲慢さ」みたいなものを排除する事が出来た人と、それが出来なかった人。
身近で色んな人を見てきて、凄く感じたのはこれでしたね。概ね、合っているんじゃないかなと思っています。
為末さんが書かれている様に、若い頃って「失敗体験」がまだまだ少ないから、自分の中に色んな体験というデータが少ない時に何かで上手くいくと「自分は出来るヤツ」という思い込みが強烈に出来上がり、それが他者への見下す姿勢や傲慢さに繋がってしまう。
そんな人間に、誰も助言をしなくなるし、本人も「自分は違う」という想いが強いから、ますます他人の意見は聞かなくなる。指導者、コーチといった立場の人も結果を出した選手にはちょっと言いにくい空気があったりしますもんね。
競技やジャンルを超えて、精神的な指導をしてくれるメンター的な人を持っていれば、それを防げるけれど今は昔と違ってそういった「目の上のたん瘤」みたいな人を持ちたい人って少ないから難しいのだと思う。
スポーツや芸術はそれそのものが目的ではなく、「術」にすぎない。
真の目的は、自分の心・魂を磨く事である、という「道」の思想回路を持っているか?に掛かってくるんでしょうね。