平成が始まった時は、
 
24歳。
 
東京キッドブラザースの劇団員として、
全国公演で活動。
柴田恭兵さんが劇団を卒業、世代交代で同期と看板俳優となり、劇団を引っ張っていく立場に。
 
萩本欽一さんの、バラエティ番組『CHA-CHAワールド』(NTV)『欽ちゃんのどこまで笑うの』(ANB)にもレギュラー出演。
 
と、とにかく忙しい日々を送っていました。
 
劇団に入団して5年目。
 
日本はバブル期ど真ん中!
 
テレビ局収録後は、稽古場へハイヤーで送ってもらえたり、信じられない時代で。
 
東京キッドブラザースは劇団員は給料制でした。ほんと信じられない時代ですよ。
 
若手時代はとにかく劇団からオーディションに行かされました。
 
CM、何故かファッションショーとかも合格してやってましたね。笑
 
萩本欽一さんのオーディションへ、
厳しい、難しい、笑いのオーディションでしたが、
何故か?何故か?私、最終オーディションまで残り、
あまりの大変さに、もう無理!と音をあげて、帰ろうとしていたら、
リハーサル室の休憩所にいた、萩本さんに『キミ今回不合格です。だけど、この選ばれたメンバーで来年新番組やります。その時にまた呼びます。』
と言われ、
一体何を言ってるんだろ??
そしたら、ほんとに一年後、呼ばれ、
『なんかやって』
と一言。
公演帰りの同期とその時の出演舞台のラストシーンを演じたら、
『来週からレギュラー』
『!!??』
マネージャーもアタフタしていたのを覚えています。
今も忘れない、
どちらも麹町の日本テレビ四番町別館での出来事。
テレビの影響力は当然絶大の時代で、劇団公演への動員。
街を歩いてると指を指される。
気づくと
平成元年8月に『瞳を閉じてごらん』JA-JAとしてCDデビュー。
『ミュージックステーション』『トップテン』
などに出演し、
東京、東北、東海、関西、九州のホールでコンサートツアー。
 
こんな時代もあったのですよ。
 
とにかく、私の中の萩本欽一さんから受けた影響力は凄く、
 
劇団卒業後も萩本さん演出舞台に毎年出演。
 
萩本さん初座長公演
『萩本欽一奮闘喜劇公演』(1998年、新宿コマ劇場)
萩本さんのコント番組
『笑いの巨人』(2003年、NTV)
くらいまでお声を掛けていただき、
ほんとにお世話になりました。
 
この時期の経験が私がここまで役者として生きてこれた礎となっていると思います。
 
話が長くなりそうなので、
 
今日は、これくらいに、、、。
 
平成元年のお話でした。
 
平成の話は尽きません、、、。
 
皆さん、平成もありがとうございました。
 
令和も変わらずよろしくお願い申し上げます。
 
現在53歳の私。
 
私もこんな可愛い時代がありました。笑