「そういうもの」
とされてきた固定概念が、
「本当にそうなの?おかしくない?」
と声を上げる人たちが後を絶たず、
その声によって目を覚ます人たちも増えてきて、
意識の書き換えが
業界中、日本中、世界中で
起きているように見受けられます。
昭和的な概念にメスが入って、それにより世の中が居心地良いものに変わってきてはいますが、でも、その中には今後の世界にも残していっていいものもある筈です。
『褒められて伸びる』
それは一理あると思います。
けなされて育ち、自己否定の強い念を持つ人は生きずらいし、本領を発揮すべき時に発揮できずにツライ人生を歩みがち。
ただ、その一方で、
「ダメなものはダメ」
ときちんと叱ってもらうことも大事なのではないかと思います。
「なんでもいいよ」は実は優しさじゃない。
「相手の自由の尊重」
と、
「相手の顔色を覗い、NOと言えないでいる」
のは別もの。
『叱ってもらえているうちが花』
というのは、
叱ってくれる人に相手への想いがあるかどうかによるけど、
ただの八つ当たりやヒステリーの時には適用されない言葉だけど、
でも、一理ある。
叱ってもらわないと、
注意されないと、
気付けないものはありませんか。
直せないものはありませんか。
切られる。
呆れられる。
見捨てられる。
そういう状況にならないと、己に向き合えないことってありませんか。
そこまでの窮地に立たされて初めて、気付くことがある。
瞬間的に気づくこともある。
でも、それは確信犯。
やっちゃダメって分かっててやってた。
でも、私は、悪気がある方がマシと思ったりもする。
悪気がある人は直せるから。
悪気がない天然って厄介。
でも、素直な分だけ、時間をかけ、じわじわと気付き、己を変えていける筈。
私はこれまでの人生を振り返ってみると、適当な誉め言葉を言ってくれた人よりも、何も言わずに見守り続けてくれている人や、むしろ、厳しいことを言ってくれた人の方が印象に残っています。
そして、時間と共に、感謝の念が強くなってきています。
最近、同世代の人と、
「私たちの時代はこんな感じじゃなかったよねー」
って話をしてたら、
「厳しく言ってくれた人たちには、今では感謝してる」
とその彼女は言った。
私も同じだと思ったのでした。
叱ってくれた人がいたから大人になれました。
改善すべきところを気付かせてくださって、ありがとうございました。