叱ってくれた人 | フラメンコ舞踊家 森山みえのブログ

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東京都内ですが隣駅は千葉県という東京の東側でフラメンコ教室を運営しています。

舞台に対する想い、そして舞台に繋がる教室での日々のこと、私の日常をブログにつづります。

「そういうもの」

とされてきた固定概念が、

「本当にそうなの?おかしくない?」

と声を上げる人たちが後を絶たず、

その声によって目を覚ます人たちも増えてきて、

意識の書き換えが

業界中、日本中、世界中で

起きているように見受けられます。

 

 

昭和的な概念にメスが入って、それにより世の中が居心地良いものに変わってきてはいますが、でも、その中には今後の世界にも残していっていいものもある筈です。

 

 

『褒められて伸びる』

 

それは一理あると思います。

けなされて育ち、自己否定の強い念を持つ人は生きずらいし、本領を発揮すべき時に発揮できずにツライ人生を歩みがち。

 

 

ただ、その一方で、

「ダメなものはダメ」

ときちんと叱ってもらうことも大事なのではないかと思います。

「なんでもいいよ」は実は優しさじゃない。

 

「相手の自由の尊重」

と、

「相手の顔色を覗い、NOと言えないでいる」

のは別もの。

 

 

『叱ってもらえているうちが花』

というのは、

叱ってくれる人に相手への想いがあるかどうかによるけど、

ただの八つ当たりやヒステリーの時には適用されない言葉だけど、

でも、一理ある。

 

 

 

叱ってもらわないと、

注意されないと、

気付けないものはありませんか。

直せないものはありませんか。

 

 

切られる。

呆れられる。

見捨てられる。

 

 

そういう状況にならないと、己に向き合えないことってありませんか。

 

 

そこまでの窮地に立たされて初めて、気付くことがある。

 

瞬間的に気づくこともある。

でも、それは確信犯。

やっちゃダメって分かっててやってた。

 

でも、私は、悪気がある方がマシと思ったりもする。

悪気がある人は直せるから。

 

悪気がない天然って厄介。

でも、素直な分だけ、時間をかけ、じわじわと気付き、己を変えていける筈。

 

 

 

 

私はこれまでの人生を振り返ってみると、適当な誉め言葉を言ってくれた人よりも、何も言わずに見守り続けてくれている人や、むしろ、厳しいことを言ってくれた人の方が印象に残っています。

そして、時間と共に、感謝の念が強くなってきています。

 

 

最近、同世代の人と、

「私たちの時代はこんな感じじゃなかったよねー」

って話をしてたら、

「厳しく言ってくれた人たちには、今では感謝してる」

とその彼女は言った。

 

私も同じだと思ったのでした。


 

 

叱ってくれた人がいたから大人になれました。

改善すべきところを気付かせてくださって、ありがとうございました。