◆「陽明は、朱子学を学術的に展開した、朱子と同じ意味での学者=思想家ではなかった。寧ろ実践者=思想家であった。」

 文芸評論家・小川榮太郎先生のおかげで、一昨年來絶版となっていました拙著『真説「陽明学」入門』が、装いも新たに『新装版・真説「陽明学」入門』となって再刊される運びとなりました。
 さらにとても嬉しいことには、大変ご多用中にも関わらず、小川先生が解説文の執筆をご快諾くださり、本書の巻末に「新装版・真説「陽明学」入門解説」として掲載させて頂けたことです。
 四二歳で遅まきの作家デビューを果たし、以来、一陽明学研究の好事家として執筆と講演を手掛けさせて頂いて二五年が経ちましたが、拙著に著名な方から解説文を頂戴したのは今回が初めてのことで、それも秘かに私淑する小川先生からということで、
「これで明日命が尽きても悔いはない」
 と本当に思ったものです。
 ただし、小川先生からの解説文を初めて拝読させて頂いたときには、正直に申し上げて、今から約二五年余も前の拙稿ということもあり、過分なお褒めを頂戴して、気恥ずかしさで顔から火が出るようで、冷や汗をかきそうな思いに駆られたのも事実でしたが、そこは先刻ご勘案の上でのことと、ご厚意を素直に受け止めさせて頂くことにしました。

 先ずは、参考までに、小川先生から頂戴させて頂いた全一二ページにわたる「解説文」から、冒頭の一部を披露させて頂きます。以下の太文字箇所は、本書の推薦文として使用されているものです。

『「まえがき」に明らかであろう、林田氏は、陽明学を、ブッダやキリスト、ゲーテ、シュタイナー、クリシュナムルティらの教えと共通する、
「不安や葛藤から自らを解放するための修行法や心構えをシンプルに説いた人間学」
 と規定し、王陽明を
「霊的進化を促す指導者のひとり」
 としているのである。
 ただし、陽明学は宗教ではない。林田氏によれば、陽明学は
「宗教とは違い、現世重視の、現実の人間社会に密着して、現実をより良くしていこうとするプロセスの中で、みずからを鍛え上げてゆく実学」
 だ。
 林田氏の志は高い。

 通俗に堕(だ)さずして平明な、心の実践書は稀である。この本を、手に取られた読者は幸いだ、生涯の道の友となり得る良書に出会えたのだから。


 さて、私は、当然のことながら、小川先生の解説文が出来上がってくるのを心待ちにして拝読させて頂いたのですが、流石、御目の付け所が違う、とつくづく思ったものです。
 それは、例えば小川先生の以下のような言葉にもあらわれています。

『陽明は、朱子学を学術的に展開した、朱子と同じ意味での学者=思想家ではなかった。寧ろ実践者=思想家であった。
 有名な逸話がそれを証している。
 陽明は若い頃、朱子の言う格物致知(かくぶつちち)を体得しようとして、竹林の竹を格物しようと瞑想し、その結果ノイローゼになったと自ら語っている。…(中略)…
 言うまでもなく正統な朱子学徒なら、「格物致知」を明らかにしようとして竹の前で瞑想などしない。徹底して朱子の語録や著述を読む。そこここを比較検討してゆく。読めと示唆された本を更に読む。こうして何を聞かれても膨大な言葉の体系から答えを引き出せる朱子学者が出来上がる。
 陽明はその道を行かなかった。格物致知とは何かを体認、体得しようとした。
 要するに、朱子学を言説の上で展開したというより、格物致知そのものに肉薄しようと体をぶつけた人だった。生き方をぶつけた人だった。その体をぶつけて格物致知を問う事の蓄積が陽明学だ。その意味で、陽明は言説の展開者でなく、思想のあり方そのものを転換した人であった。』


 私が、王陽明のことを、孔子や釈迦やキリスト、ゲーテやR・シュタイナー同様の「霊的進化を促す指導者のひとり」と見做したのは、そういうことなのです。陽明は、学術的というより、より実践的だった。

◆本書執筆開始から半年たった頃に味わった、ある種の神秘体験と言っても過言ではない「知行合一体験」がなければ、本書はロングセラーとはなり得なかった

 続けて、小川先生は、こう語っています。

『林田氏は、神秘体験をまともに取り上げない学術伝統とは遠いところにいる。が、一方、神秘体験をゴールと見なすニューエイジ的なスピリチャリズムとも異なるところにいる。
 林田氏は、陽明と共に、三昧境の体験を乗り越え、世俗社会においてどう良い生き方、良い社会を実現するかという「道」を見出そうとする。』


 本書には書けなかったことですが、本書執筆開始から半年たった頃に味わった、ある種の神秘体験と言っても過言ではない「知行合一体験」がなければ、本書はロングセラーとはなり得なかったに違いないのです。後にも先にも、「知行合一体験」を超える至福の感動体験はあの時一回限りと言っていいでしょう。
 今回、本書巻末の『新装版・真説「陽明学」入門あとがき』にも触れさせて頂いたことですが、「知行合一体験」については、『評伝・中江藤樹』(ワニ・プラスより新書として再刊の予定)の「あとがき」に書かせて頂きましたので、是非のご一読をお薦めします。

 最後に、私が小川先生の解説文の中で一番心に響いた箇所を披露させて頂き、ペンを置かせて頂くことにします。

『「私は、この良知の説を百死千難(ひゃくしせんなん)の中から獲得したのです。容易なことで、ここまで悟れたのではないのです」(202頁)

 私は良知を巡る様々な学術展開の千万言よりも、この一行に強く魅了される。
 陽明は様々に「致良知」説を言い換える。後世の学者は――中国共産党の非難を模(も)すかのように――それを主観的唯心論と呼ぶ。
 何が主観であるものか、「百死千難」という言葉が陽明の中で、どんなに深い意味を持っているかを少しでも想像しさえすれば。
 劉瑾(りゅうきん)弾劾(だんがい)によって廷杖(ていじょう)四〇の刑に処せられ瀕死の体となり、体の傷も癒(い)えぬまま蛮地(ばんち)龍場(りゅうじょう)に流され、住む家まで自分で建て、下男に介抱されるどころか彼が下男を介抱してやったという。廷杖がもとで肺結核となり、万病を抱えながら、再三戦場に駆り出され続けた。常人であれば何度死んでいたか分るまい。
 その中で良知を説き続けるということが、「内の謳歌」や、人間の「善」を信じ込む気楽な「主観」である筈があるか。』



▼装丁:戸田吉彦

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