◆蕃山は、「江戸時代260年の歴史の中で、ナンバーワンの政治家であり、政治思想家」だった

 今では、見事に全く忘れ去られてしまった感のある中江藤樹(なかえ・とうじゅ)の高弟で陽明学者の熊沢蕃山(くまざわ・ばんざん)について、触れてみたい。
 蕃山といえば、
「江戸時代屈指の経世家」
 であった。
 今風に言えば、
「江戸時代260年の歴史の中で、ナンバーワンの政治家であり、政治思想家」
 だったのである。
 幕末の陽明学者・山田方谷(ほうこく)が私淑し、方谷が「小蕃山」と呼ばれた事は、記憶に新しい。
 また、幕末期の思想家で、坂本龍馬の師・横井小楠(しょうなん)も、蕃山の著書の愛読者であった。

 私などは、蕃山について知れば知るほど、日本人としての自覚を深めてきたのだが、その事は蕃山が「日本主義思想の先駆者」(伊東多三郎責任編集『日本の名著⑪、中江藤樹・熊沢蕃山』、伊東多三郎「藤樹・蕃山の学問と思想」)
 などと称されていることと無縁ではない。
 蕃山の師の中江藤樹は
「日本陽明学の祖」
 と称されてきたが、それは藤樹が神道に陽明学を接ぎ木して「神儒一致」の「日本陽明学」を主唱したが為であり、蕃山は藤樹の「神儒一致」説を受け継いだのである。
 それも、山崎闇斎(あんさい)の「垂加(すいか)神道」などが儒学本意の「神儒一致」であったのに対して、蕃山は、師の説をさらに先鋭化して、神道本意の「神儒一致」説を唱えたのだ。
  
 蕃山の名著『集義外書』巻16「水土解」にこうある。

「日本の神道は上古の簡易の時代に、知仁勇の三徳を三種の神器で象徴したもので、儒教の経典『中庸』をもってその趣旨を解釈することができる。このように葬祭は天竺(インド)から、文字・器物・理学は唐国(中国)から借りることができるが、〈貸すこともできず借りることもできぬものがある〉。日本人にとっては、日本の水土(自然環境)に適した神道、唐国(中国)人にはその水土に適した儒教、天竺(インド)人にはその水土に適した仏教である」(伊東多三郎責任編集『日本の名著⑪、中江藤樹・熊沢蕃山』伊東多三郎「藤樹・蕃山の学問と思想」)

◆「天下国家を治めるには、人の心を正しくするより先に立つものはありません」

 蕃山は、さらに踏み込んで、こう語った。

「儒道という名も聖学という語も言わず、日本の神道と王法を尊重し、再興して神代の古風に復帰するだろう。唐(中国)めいたことは何もあるはずがない」(『集義外書』巻2「釈迦が日本に来たら」)

 こうした朝廷重視の考えが、幕府開闢(かいびゃく)間もない江戸幕府の立場からすれば、危険思想とみなされたのは、言うまでもないこと。
 また、蕃山の思想が、その後、水戸学に受け継がれて行ったのも、ごく自然なことであった。

 蕃山の言葉の中でも、特に常々大事にしている言葉を紹介して、本稿を終わりにしたい。また続きを書かせて頂く。
 
「人の身中に心があるのと、天地の間に人があるのと同じ理屈であります。心が悪ければ身の作法が悪く、人道が間違っていれば、世の中に災難が絶えることなく、ついには天下の乱れとなります。それだから、天下国家を治めるには、人の心を正しくするより先に立つものはありません」(『集義外書』巻2「一休の歌」)

 人の心を正しくするための唯一の学問(修養法)こそが、「良知心学」と称される「日本陽明学」なのである。ちなみに、石田梅岩の「石門心学」のルーツこそが、中江藤樹を祖とする「日本陽明学」であった。梅岩の心学は、梅岩の独創などではなく、藤樹の「良知心学」の教えをさらに大衆化したものなのである。

◆日本人よ奮起し目覚めよ

追補:
 私たちは、政治や経済の力で解決できる事にはおのずと限界があることを思い知らなければならない。我が国には、中江藤樹を祖とする「日本陽明学」が存在したからこそ、江戸の「大衆文化」が可能になり、隣国で、同じ儒教文化圏の中・韓に比べても、遜色のない高い道義心があるのだ。
 とはいえ、戦後になって中江藤樹や熊沢蕃山のことが全く教えられなくなったように、「日本陽明学」が存在してきた事さえ知らされなくなって久しい。このままでは、日本人が、日本人らしさを失うのも、時間の問題かもしれない。

 近々、刊行されるという百田尚樹『日本国紀』には、「日本陽明学」についての記述は皆無と思われる。だが、左傾化し過ぎた自虐的な日本史ではない、真正日本史の教科書こそが、今回の『日本国紀』であることは言うまでもないだろう。
 今から拝読させて頂くのが楽しみである。
 そして、日本人よ、奮起し目覚めよ。

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