◆「事上磨錬によって手に入れることのできるものは、静坐によって得るものの倍です」

 以下、吉田公平・小路口聡・早坂俊廣・鶴成久章・内田健太
『王畿「龍渓(りゅうけい)王先生会語」其の11』
 からです。
 王龍渓(1498~1583。Wang Ji)は、陽明学の創始者・王陽明の高弟で、陽明亡きあとの真の後継者です。その生涯を、師の教えの啓蒙活動に捧げました。
 日本陽明学の祖・中江藤樹は、王龍渓の思想を契機に大悟し、藤樹の弟子たち、特に熊沢蕃山と並ぶ二大弟子の一人の淵岡山(ふち・こうざん)とその門人たちは、王龍渓の思想を重視し、実践体得に努めたことが知られています。
 つまりは、日本陽明学を理解するには、王龍渓の思想を学ぶべきなのです。なお、幕末の陽明学者として知られる佐藤一斎は、王龍渓を評価しませんでした。
 真の求道者に、以下のさらなる解説は不要でしょう。

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【事上での磨錬から入って、状況に左右されないのを、徹悟と呼びます。】

ある人が言った。
「あなたが、
〈吾が儒は、中庸の道に合致しており、禅学や俗学とは異なる〉
 と言われるのは、正しいでしょう。
 かといって、恐らくは、外から強引に手に入れようとしても、出来るものではありません。どうか、入り方を教えてください」
 私(王龍溪)が言った。

「君子の学は、悟りを得ることを貴(とおと)びます。この悟りの門が開かれないと、本当に学んだという確証は得られません。悟りに入る道(入悟)には、三種類あります。
 言葉から入る者がいます。静坐から入る者がいます。人の心のありようや出来事の変動の上で本心を磨錬(錬磨)することから入る者がいます。
 言葉から入ることを、解悟と呼びます。学びの最初の転機です。
 静坐から入って、本心から悟得(自得)するのを、心悟(證悟)と呼びます。
 事上での磨錬から入って、状況に左右されないのを、徹悟と呼びます。
 静坐する場合には、必ず頼るべきものが必要です。周囲の環境が静かであってこそ、心は始めて静かになります。それは濁った水が澄むのに例えることができます。たとえ一時的に澄んだとしても濁りの元は、依然として残存しているので、風や波によって振動し、搔き乱されたとたんに、やはり再び濁りの元が雑(ま)ざりあって、容易に濁ります。
 もし人情事変の上の磨錬から行っていけば、完全に透き通って、流れるがままに絶妙に応じることができます。水面は複雑多様に揺れ動いていても、真の主宰者は常に一定しているので、磨錬すればするほどますます本体はその輝きを増してきます。そうなるともう澄んだり濁ったりすることはありません。これを実証実悟(真実の悟り)と言います。

 思いますに、静坐によって手に入れることのできるものは、言葉によって伝えられるものの倍です。事上磨錬によって手に入れることのできるものは、静坐によって得るものの倍です。
善く学ぶ者は、自分の力量の大小を見計らって、時間をかけながらゆっくりと入っていきますが、それが功を成すに及んでは、得られる成果はみな同じです。

 先師(王陽明)の学も、幼年の頃は、やはり言葉から入りましたが、ついで静中から悟りを得て、その後、野蛮な地に居住すること三年にして、万死に一生を得た経験の中から、度重なる磨錬を得た結果、やっと徹悟の証を手に入れました。
 生涯にわたる経綸(世直し)の事業は、全てその余事(本来の仕事ではなく、余力で行う仕事)なのです。儒とは、中庸の道を実践する実学です。」(『龍渓王先生会語』巻四)

▼王龍渓(畿)
王龍渓












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