◆「いったい、人の人たるところは、私心を除(のぞ)くという点にある。これが聖学、すなわち孔子・孟子の教えにおける修養の道である」

 上巻の巻末には83年3月に一読したとのメモ書きがあったが(当傍線や付箋がついていることから、当時は、下巻の半分までは読了したようである)、近藤啓吾・全訳注、吉田松陰
『講孟劄記(こうもうさっき)』
 を読んでいてつくづく思うことは、陽明学についての理解があって読む今と、かつてとでは、まるで読み方が違うということだ。
 というのも、吉田松陰が27歳の年の安政3年に脱稿した本書には、既に松陰なりの陽明学理解が反映されているからである。
 「松陰なり」と記させて頂いたが、松陰の陽明学理解と私のそれとの間には、矛盾や齟齬(そご)はまるでないことをお断りしておく。
 特に、幕末の陽明学者・山田方谷も重視した孟子と告子(こくし)との議論の部分に関する松陰の解説は、読んでいてとても分かり易いし、小気味がいい。

 本書の「巻の四上、第二章」にこうある。

王陽明の説いたことばに、
〈聖人とは私欲がすっかり無くなって、その心が天理そのものになった人物に名づけたものである。重量が重いか軽いかという問題ではない。されば聖人は純金に似ている。それが軽いか重いかの問題は、聖人たる価値とは無関係である。されば聖人のうちにも、自然、軽重の差があって、堯(ぎょう)・舜(しゅん)や孔子のごとき聖人は百両の重さの金であり、文王(ぶんのう)や周公(しゅうこう)は7、80両、湯王(とうおう)や武王(ぶおう)は、5,60両などというように、それぞれに重さに差があるが、その純金であることは同一である。
もしわれわれでも、私欲をすっかり無くして天理そのままになったならば、1両や2両の純金の量があるであろう。
 しかるに後世の学徒は、この点(自分を純金にしようとすること)に努力せず、いたずらに才力・智力をたいせつに考えて知識の獲得にばかり努力していることは、銅や鉄を混(ま)ぜて金の目方(めかた)を重くしようとしているようなものである。それ故に、学問すればするほど、聖人から遠のいてゆく〉
とある。
〔この説は、『伝習録』に見える。今、記憶によってその大意を記したのみである〕この陽明の説は、実に明白である。
 しかるに学徒は、大方、銅や鉄を混ぜて目方を増やそうとする気持ちを止めかねていることであって、大いに歎(なげ)かわしい。
 以上の実情から、わたくしは自身に決意するところがある。いったい、人の人たるところは、私心を除(のぞ)くという点にある。これが聖学、すなわち孔子・孟子の教えにおける修養の道である。さればわたくしは、これを学問の主体とし、その他の記誦(きしょう。暗唱)・詞章(ししょう。詩歌や文章)以下のことは、一個の技藝(ぎげい)として視(み)ようと思う。・・・(中略)・・・
 ただ聖人は、技藝は技藝として視て、これを人の人たる価値とはされなかったのである。」


 繰り返しになるが、吉田松陰は本書を脱稿したときには、なんとわずかに27歳という若さであった。
 昨今の同年代の若者の中に、これほどの理解力のある、精神性の高い若者がいるであろうか。
 中国に次いで、欧米列強に侵略されるかもしれないという危機意識が日本列島に充満していた時代が、吉田松陰のような逸材を誕生せしめたのに違いない。
 そう言えば、王陽明が生きた時代も、中国歴史上かつてないほどの悪政に満ちた時代であった。

 吉田松陰は、安政6(1859)年に、30歳で刑死するのである。
 
 大老・井伊直弼が、この松陰や、同じく陽明学を奉じていた橋本左内という有為の人物を殺してしまったのは、人を見る目がまるで無かったと言っていい。

吉田松陰が、その晩年に陽明学に傾倒したことは有名な話なのだが、松陰に私淑し学ぶ人は多いのだが、『伝習録』を読んでいないのは、誠に残念。

▼近藤啓吾・全訳注、吉田松陰『講孟劄記』(講談社)

 

 

講孟劄記

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 


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