◆〈見る、聞く、思う、行うという働きが天理と一つになった境地〉というのを、かみ砕いていえば、たとえば、思ったと同時に行っている状態(境地)のことです。

 新著『評伝・中江藤樹』(三五館)が発売されて10日ほどが経ちました。
 私は、現在、日々、『伝習録』下巻の口語訳にチャレンジしています。出来上がり次第、刊行にこぎつけたいと思っています。

 さて、さる10月3日(火)の夕方6時半頃から、
「日本陽明学研究会・姚江(ようこう)の会・東京」
 の主宰で、
「陽明学に学ぶ会」(毎月一度開催)
 が開催されました。

 現在輪読中の『伝習録』中巻の難解な個所についての説明を試みましたが、言葉足らずだったのではと思い、2時間ほどかけて意訳を試みました。
 というわけでして、今回のこの記事は、実は会員向けに書かせて頂いたものなのです😊。

 『伝習録』下巻の「又(陸原静に答えるの書)」の一説についてです。
 現在、会でテキストとして使っている溝口雄三・訳 『王陽明 伝習録』(中央公論新社)には、こうあります。

「理は(それ自体としては)〈動〉のないものです。不断に理を明知し、自覚し、依拠する、これがつまり
〈睹(み)ず聞かず〉(『中庸』)
〈思うなく為(な)すなき〉(『易経』繋辞上伝)
 状態に他なりません。  
 つまり、睹(み)ない聞かない、思わない為(し)ないというのは、枯木死灰(の寂滅)をいうのではなく、見・聞・思・為(などのはたらき)が理と一つになったことをいうのです。
 そしてこの場合、見・聞・思・為が(それ自体自律的に)機能するということは決してありません。これこそが、(機能する点で)動でありつつ(理に一つという点で)不動ということ、いわゆる〈動にも定、静にも定〉ということで、まさに〈体用は源を一つにする〉(前出)ということでもあるのです」


 何とも硬い文章です。
 そして、何よりも難解です。
 分かったような、分からないような人はまだましで、まるで何を言っているのか分からない、という人の方が大多数だと思います。
 そこで、以下、私なりに意訳を試みました。

「理(天理。道理。良知)それ自体は、〈動〉でもなければ〈静〉でもありません。
 休むことなく天理(道理)をはっきりと知り、常に天理の存在を自覚し、休むことなく天理を拠り所とし信じ切ること、これが『中庸』にいう
〈(天理は)見ようとしても見えない、聞こうとしても聞こえない〉
 であり、『易経』繋辞上伝にいう
〈(易は)思わない行わない(無心無為)〉
 という状態そのものなのです。
 つまり、
〈見ようとしても見えない、聞こうとしても聞こえない〉
〈思わない行わない(無心無為)〉
 というのは、禅仏教の俗説では
『何も考えるな、何も思うな。〈空〉の境地だ。〈無〉になれ』
 などと説いていますが、そんな死人のような境地のことをいうのではなく、見る、聞く、思う、行うという働きが天理と一つになった境地をいうのです。


〔〈見る、聞く、思う、行うという働きが天理と一つになった境地〉
 というのを、かみ砕いていえば、たとえば、思ったと同時に行っている状態(境地)のことです。
『あ、ゴミが落ちている。では、これから目の前に落ちているごみを拾うぞ』
 などと言い聞かせて、それからアクションを起こすケースが普通だと思いますが、善行をすることが当たり前になっている人の場合は、
『あっ、ごみが落ちている』
 と思うか思わないかの、ゴミに気づいたその瞬間に、もう拾い上げているのです。
 思いが先で行動が後、ではなく、思ったと同時に行っている「知行合一並進」、思いと行動とが並び進む状態(境地)にあるのです。
 天理(良知)が発揮されたその時には、
『拾うぞ、善いことをするぞ』
 という思い、つまり作為がないのです〕

 そして、この場合、見る、聞く、思う、行うことが、それ自体独立して働くということは決してありません。それらは常に天理(良知)と一体のものであり、働くという点からみれば動であり、理と一つであるという点から見れば不動なのです。
 換言すれば、程明道(てい・めいどう)が言う
〈動にも定であり、静にも定である〉
 ということと同じであり、まさに
〈本体とその作用の根源は同じ(体用一源)〉(『程伊川易伝序』)
 ということでもあるのです」


 以上、『伝習録』の中巻の難解な部分の現代語の意訳を試みました。
 陽明学でいう「無心無為」は、「何も考えない、何も思わない、何もしない」ことでは無く、作為がないことをいうのです。何も考えない、何も思わない、何もしない、などということが、生きている人間にできるはずもありません。

 陽明学理解には、内観を中心とした実践体得も要求されますから、時間がかかります。今のところ、なんとなくでもいいですから、分かってくだされば、それでよしとしたいと思います。陽明学の世界観は、どちらかといえば損か得か、勝つか負けるかで動いている現代社会や、かつての朱子学のような二元論ではなく、一元論ですから、その違いがなんとなく伝わったら、それでよしと思います。

 ここまで読まれた方は、もう思い知らされたことでしょう。現代語訳されている『伝習録』といえども、これを一人で、独学で読みこなすのは、至難の業といっていいでしょう。
 現在、月に一度(毎月第2火曜日)、都内(主に高田馬場)で輪読会を開催中です。興味がある方は、ぜひコメント欄にご一報を。

 上記のような固い話ばかりしているわけではありませんので、一度見学にでもいらっしてください。


陽明学に学ぶ会(2017年10月3日)

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