◆「知行合一」説こそが陽明学の真髄だと思っている人が圧倒的にい多い


 「日本陽明学研究会、姚江(ようこう)の会・東京」では、月に一度、都内の某所(高田馬場が多い)に集まり、王陽明の言行録『伝習録』の輪読会を開催している。
 中国や韓国に比べ、日本の場合は、陽明学に興味を持つ人は少なくないにしても、実践体得につとめた江戸時代人とは違って、知的好奇心を満足させて、分かったつもりになっている人が大多数であるはずだ。
 その端的な例が、「知行合一」説こそが陽明学の真髄だと思っている人が圧倒的にい多いことだ。王陽明について書かれた本の表紙や帯に「知行合一」の文字が躍っていれば、その著者は、すでに分かったつもりのレベルと言っていい。というのも、かつての私がそうだったからである。
 王陽明は、そこのところを次のように語っている。

「今、いくら熱心に天理(良知)について語りあっていたとしても、自分の心の天理(良知)を放ったらかしにしたままで、天理(良知)に従って実践することもなく、人欲(私欲)について語り合っていながら、自分の心に生じている人欲(私欲)を放ったらかしにしたままで、内観し人欲(私欲)を取り除くこともしないのであれば、いったいそれがどうして
『格物致知(心を正し良知を発揮すること)』
 の学問だといえるのでしょうか」(『伝習録』上巻八五条)

◆65歳の私は、朝から晩まで「良知を致す」の日々と言っていい。


 最近の私は、たとえば、キッチンに立った時などに、
「ベランダのプランターに水をあげた方がいいのでは」
 との内なる声なき声がするので、すぐにアクションを起こすのだ。
「そろそろ家族が帰ってくる時間だから、ドアのカギを開けておいてあげた方がいいのでは」
 と声なき声が命じるので、そうするのである。
 今の私は、善いことだからやる、実行するのではなく、内なる良知の声なき声がそうしろと命じるから、やるべきことをやっているのである。
 もちろん、内観(反省)も欠かさない。内観も、「良知を致す」なのである。言い換えれば、「そろそろ内観したら!」と命じるのは、良知なのだ。
 65歳の私は、朝から晩まで
「良知を致す」
 の日々と言っていい。
 もちろん、私は凡夫であって、完ぺきではない。
 つい、良知の声なき声をスルーして、後で後悔することも多い。でも、スルーしたことを気づかせてくれるもの、それが良知なのである。
 後悔しながらも、
「あ、良知が働いているな。気づかせてくれた良知に感謝」
 と思えば、それで心は本来の伸びやかさを回復するのだ。
 こうした見解の多くは、実を言うと、江戸時代の「日本陽明学」に学んだ結果なのである。

 昨今、中国では、稲盛和夫氏が陽明学を話題にされてからというもの、陽明学人気が高まっているとのこと、真摯に学ぶ中国人が一人でも多く増えてくれたら、世の中はもっと住み良いものになるに違いない。

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