◆中江藤樹とその門人たちの活躍を抜きにして、江戸文化を語ることはできません。

 昨年11月に入稿させて頂いた拙稿
『日本陽明学の祖・中江藤樹(仮)』
 のことに関して、4月27日に出版社から、
「このゴールデンウィーク中に編集作業をスタートさせます」
 といった内容の連絡を頂くことができました。
 前代未聞の出版不況の中、拙稿を刊行して頂けるだけでもありがたいと思っています。
 内容は、中江藤樹の伝記であり、
「日本陽明学」
 の入門書となっています。
 中江藤樹とその門人たちの活躍を抜きにして、江戸文化を語ることはできません。そのことは、拙著を一読されるなら、必ずやご理解いただけるはずです。
 であるにもかかわらず、これまでの日本の近・現代史では、彼らの活躍は無視されたままなのでした。

 陽明学は、室町時代には我が国にもたらされて、禅宗の僧たちによって学ばれていたのですが、陽明学の大衆化の先鞭をつけたのは、中江藤樹でした。
 さらに、中江藤樹は、神道と陽明学を融合させたことでも、先駆的でした。
 神道と融合した陽明学は、藤樹の高弟の熊沢蕃山淵岡山(ふち・こうざん)らによって「日本陽明学」となり、日本人に受け入れられていったのです。

◆「この世俗の習わしが染みついてしまった身体を放り出して、常に志を同じくする友をあちらこちらに求め、環境を変えてみることで、はじめて力を発揮する場が生まれるのです」

  陽明学は、実践体得のための教えです。だからこそ、王陽明の言行録の『伝習録』には、「修養(修行)」を意味する「功夫」という言葉が何度も何度も登場するのです。
つまり、たとえ王陽明の教えが、頭で分かったにしても、
「良知を信じ切る」
 という実践体得の工夫と努力が継続できていないということは、分かったつもりになっているにすぎないのです。
 
 私の場合は、日常生活の中での反省や内観もさることながら、修養の一つの方法として、志を同じくする人たちとの集いがとても有効だと思っています。
 王陽明の高弟の王龍渓(おう・りゅうけい)は、その事についてこう語っています。
 ちなみに、日本陽明学の祖・中江藤樹と、藤樹の門人たちが影響を受けたのは、王陽明よりも、この王龍渓の教えのほうでした。

「私たちは、家庭生活にあって、世俗の習わしにまみれた心で、惰性的に俗事に向き合っているので、いつまでたっても、その束縛や堕落から抜け出すことはできません。
 この世俗の習わしが染みついてしまった身体を放り出して、常に志を同じくする友をあちらこちらに求め、環境を変えてみることで、はじめて力を発揮する場が生まれるのです。
 たとえば、私などは、長年、他国を歩き回っているわけですが、どうして家の中にあって、処理すべき家事が少しも無いなどということがあるでしょうか。どうして、妻子のことが気にならない、などということがあるでしょうか。
 また、どうして、仲間たちを手招きして、引き寄せては、もっぱら、その人たちに知識を教え込むことを仕事としていればよい、などということを望んだりできるでしょうか。
 私が思うに、この良知の学と同志たちとの関係は、魚と水の関係のようなものです。お互いに、狭い世界の中で、唾を吐き掛け合ったり、舐めあったろしたところで、江湖の水がのどの渇きを忘れさせてくれるのには、到底かないません。
 一日中、同志たちと互いに点検しあい、互いに切磋琢磨しあって、一瞬たりとも気を緩めないでいるのと、我が家でくつろいでのんびりしているのとでは、その心境には、格段の違いがあります。
 同志たちも、これがもとで、やはり刺激を受けて、視界がパッと開けることもあります。
 それは、同志諸君にも、自分で自分を豊かにする能力があるからなのであって、私の力で彼らを豊かにしたわけではありません。
 もちろん、知識人たちが、互いに面と向かい合っていながら、一言も口をきくことができない時もあります。まさに、〈対面千里(目の前に居ながらも、千里の隔たりがある)〉になってしまうのです。どうして、ほんのわずかでも、独断で決めてしまってよいことなどあるでしょうか」(白山中国学通巻16号、『龍渓王先生会語』其の4、参照)



 陽明学の実践体得には、同志の存在は欠かせないのです。

▼「陽明学第10号、王龍渓特集号」(二松学舎大学)

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