◆「兆し(予兆)」に気づくことの大切さを思い知らされた
1月10日のこと。
なんと、今朝も猿の夢を見ていた。
正確には、果物と猿の夢である。
何故?
猿の夢にどんな意味があるの?
そんな話をしていたら、近江の白浜荘の前川社長から、30キロものお米(コシヒカリ)が送られてきた。
「どりーむ、大黒天米」
と銘打ってあった。
正月早々、大黒天とは縁起がいい、などと思っていたら、妻が
「だから言ったじゃない。私、正月にお米がたくさんある夢を見たでしょう」
と言ってきたので、私は、応えて言った
「じゃ、もうすぐしたら、何処からか猿が送ってくるの(^o^)/」
妻
「・・・」
(*^-^*)
台所で、食器などの洗い物をしていた。
手狭な台所なので、誰かがよけたのだろう、足元の床に昨日使った鉄製のフライパンが置いてあった。
フライパンは洗っていないようで、油の残りが底にたまっていた。
「あ、この上に物が落ちたら油で汚れてしまうなぁ」
と一瞬、そんな思いがよぎったのだが、
「気をつけていれば大丈夫だ」
と最初の思いを振り切って、洗い物を続けていたら、手元近くにあった大福の包み紙が、パラリと落ちて行ったかと思うと、フワリフワリと漂いながら、なんと、フライパンの底にたまった油の上に落ちてしまったではないか。
「え、何でこの上に落ちるの」
と思ったのだが、
「捨てる紙で良かった」
そう思いながら、拾ってゴミ箱へ捨てたのである。
ところがである。
そのすぐ後に、散らかった数枚の布巾を片付けようと手に取った時に、数枚の内の1枚が手をすり抜けて、床をめがけてヒラリと落ちて行ったのである。
で、あろうことか、フライパンの中に落ちてしまったのだ。
「え~っ、何でこうなるの💢」
と思って、急いで拾い上げたのだが、時すでに遅し、油まみれになっていた。
「慎重さに欠けていた私のせいだ、仕方がない」
そう言い聞かせて、まずフライパンを綺麗にして、次に、油で汚れた布巾に台所用洗剤をつけて綺麗に洗って干したのだが、最初に、汚れたフライパンの存在に気づいて、
「あ、この上に物が落ちたら油で汚れてしまうなぁ」
と思ったその時に、フライパンを洗ってあるべきところに戻してさえいれば、その後の手間は生じなかったのだし、次に、大福の包装紙が落ちて行った時にも、それが次に起きる事の
「兆し(予兆)」
だということに気づくべきだったのである。
何度か「兆し(予兆)」が、つまり良知(内なる声)からの指示があったにもかかわらずそれを無視してしまったからこそ、布巾を油で汚して洗い直すという余計な仕事が増えてしまったのである。
今朝は、つくづく、未だ「良知を致す」ことのできない未熟さを思い知らされてしまったものだ。
多くの人は、上記のようなことが自分の身の上に降りかかっても、些細なことだと気にもしないのであろうが、もちろん、かつての私も同様であった、陽明学を学ぶ様になってからというもの、「兆し(予兆)」に気づくことの大切さを思い知らされているのである。
世間では、大事と小事とを区別するのだろうが、陽明学では、
「大事と小事はもともと一つ、大事小事の区別なし」
なのである。
それが大事であれ小事であれ、誠実に対処すればいいだけの話なのだ。区別をするから、大事を優先し、小事を疎(おろそ)かにしてしまうのである。
小事の積み重ねが大事になるのだから、小事と言えども、おろそかにはできるはずもないのだ。
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なんと、今朝も猿の夢を見ていた。
正確には、果物と猿の夢である。
何故?
猿の夢にどんな意味があるの?
そんな話をしていたら、近江の白浜荘の前川社長から、30キロものお米(コシヒカリ)が送られてきた。
「どりーむ、大黒天米」
と銘打ってあった。
正月早々、大黒天とは縁起がいい、などと思っていたら、妻が
「だから言ったじゃない。私、正月にお米がたくさんある夢を見たでしょう」
と言ってきたので、私は、応えて言った
「じゃ、もうすぐしたら、何処からか猿が送ってくるの(^o^)/」
妻
「・・・」
(*^-^*)
台所で、食器などの洗い物をしていた。
手狭な台所なので、誰かがよけたのだろう、足元の床に昨日使った鉄製のフライパンが置いてあった。
フライパンは洗っていないようで、油の残りが底にたまっていた。
「あ、この上に物が落ちたら油で汚れてしまうなぁ」
と一瞬、そんな思いがよぎったのだが、
「気をつけていれば大丈夫だ」
と最初の思いを振り切って、洗い物を続けていたら、手元近くにあった大福の包み紙が、パラリと落ちて行ったかと思うと、フワリフワリと漂いながら、なんと、フライパンの底にたまった油の上に落ちてしまったではないか。
「え、何でこの上に落ちるの」
と思ったのだが、
「捨てる紙で良かった」
そう思いながら、拾ってゴミ箱へ捨てたのである。
ところがである。
そのすぐ後に、散らかった数枚の布巾を片付けようと手に取った時に、数枚の内の1枚が手をすり抜けて、床をめがけてヒラリと落ちて行ったのである。
で、あろうことか、フライパンの中に落ちてしまったのだ。
「え~っ、何でこうなるの💢」
と思って、急いで拾い上げたのだが、時すでに遅し、油まみれになっていた。
「慎重さに欠けていた私のせいだ、仕方がない」
そう言い聞かせて、まずフライパンを綺麗にして、次に、油で汚れた布巾に台所用洗剤をつけて綺麗に洗って干したのだが、最初に、汚れたフライパンの存在に気づいて、
「あ、この上に物が落ちたら油で汚れてしまうなぁ」
と思ったその時に、フライパンを洗ってあるべきところに戻してさえいれば、その後の手間は生じなかったのだし、次に、大福の包装紙が落ちて行った時にも、それが次に起きる事の
「兆し(予兆)」
だということに気づくべきだったのである。
何度か「兆し(予兆)」が、つまり良知(内なる声)からの指示があったにもかかわらずそれを無視してしまったからこそ、布巾を油で汚して洗い直すという余計な仕事が増えてしまったのである。
今朝は、つくづく、未だ「良知を致す」ことのできない未熟さを思い知らされてしまったものだ。
多くの人は、上記のようなことが自分の身の上に降りかかっても、些細なことだと気にもしないのであろうが、もちろん、かつての私も同様であった、陽明学を学ぶ様になってからというもの、「兆し(予兆)」に気づくことの大切さを思い知らされているのである。
世間では、大事と小事とを区別するのだろうが、陽明学では、
「大事と小事はもともと一つ、大事小事の区別なし」
なのである。
それが大事であれ小事であれ、誠実に対処すればいいだけの話なのだ。区別をするから、大事を優先し、小事を疎(おろそ)かにしてしまうのである。
小事の積み重ねが大事になるのだから、小事と言えども、おろそかにはできるはずもないのだ。
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