◆熊沢蕃山の高弟で公卿・北小路俊光についてウェブで検索してみたら・・・。

 11月30日(日)の今朝は、もとい、今日は午後2時に起床した(;´・ω・)。
 時々こういうことがあるのだが・・・、というのも、一昨夜は床に就いたのが朝の6時半、で、昨夜はというと早朝5時半であった。
 外は曇天なので、目覚めにくい天候だったことも影響したようだが、実は、こうなったのには理由がある。
 一昨日は、結局12時に起きたので、約6時間しか眠れておらず、持病で疲れやすい身体の私としては、作夜は早く床に就きたかったのだが、
「そろそろ店仕舞いをして、床に就こうかな」
 等と思いながらも、午前4時頃になって、このところ気になっていた中江藤樹(とうじゅ)の高弟で陽明学者・熊沢蕃山(くまざわ・ばんざん)の高弟の一人
「北小路俊光(きたのこうじ・としみつ)」
 についてネット検索を試みたのである。

 北小路俊光について、辞書にはこうある
 北小路俊光(1642-1718)は、江戸前・中期の公卿で、本姓を大江、通称を石見(いわみ)という。北小路俊祗の次男。熊沢蕃山の高弟。大学助・蔵人(くらんど)を経て大膳大夫(だいぜんのだいぶ)・従五位下(じゅごいのげ)となる。享保3年(1718)歿、77才。 

 さらに、前々から読みたかった
『北小路俊光日記抄』
 をアマゾンで検索してみたら、品切れで・・・、それならばと「日本の古本屋」で検索してみると、一番安価なもので5000円であった。
 手が出ない金額ではないのだが、書籍代には正直毎月頭を痛めているのが実情なので、
「う~ん」
 と唸りながら、ウェブに切り替えて検索してみると、トップにある
「近代デジタルライブラリー - 北小路俊光日記抄. 蕃山遺材 巻1」
 という見出しが目に留まった。
「何だろう、これ?」
 そう思ってクリックしてみると、目の前に表示されたのは、
『井上通泰博士勘「北小路俊光日記抄」』
 の表紙であった。
 「勘」とは、「訳」のことである。

◆井上通泰は、『遠野物語』の著者として知られる国学者・民俗学者の柳田国男の兄であった。

 明治44年に茨城県の「蕃山會(ばんざんかい)」から刊行されたもので、「抄(しょう)」となっているのは、この本は北小路俊光の日記にある熊沢蕃山との交友に関する箇所だけを抜粋しているからである。
 本書の訳者の井上通泰(いのうえ・みちやす。1867~1941)という人物の名には聞き覚えがあったが、詳しいことは知らなかった。
 人名事典にはこうあった。
 歌人・国文学者・眼科医・医学博士という肩書の持ち主で、姫路に生れた。松岡操の三男で、『遠野物語』の著者として知られる国学者・民俗学者の柳田国男、民族学者・言語学者の松岡静男、日本画家・松岡映丘(えいきゅう)の兄である。
 号を南天荘といい、万葉集の研究に業績があり、御歌所(おうたどころ)寄人・宮中顧問官をつとめた、とある。

 坂本龍馬が暗殺された年の慶応2年に生まれ、名機・ゼロ戦が運用を開始した翌年の昭和16年(1941)に76才で亡くなっているので、古き良き江戸文化の名残を体験し、それらが失われていくとともに、日本が欧米の真似をし、上手に近代化を取り入れて仲間入りを果たす、というそのありさまをその目で見てきた人であった。
 ネットの画面には、よ~く見ると
「公開範囲 インターネット公開(保護期間満了」
 とある。
 それならば、というわけで、20ページずつという制限付きなので時間がちょっとかかったが、全ページのプリントアウトをさせて頂いたのである。

◆俊光は、同門の友人と老荘思想の『荘子』についてあれこれ議論を楽しんでいたりしている。

 プリントアウトをしながら、出てくる文章を流し読みしたのだが、一気に眠気は吹き飛んで、私の心は江戸初期の熊沢蕃山が生きた時代を耽溺していた。
 良書を、それも安価に手にれることができて喜んだのは実に久々のことであった。
 どんなところに心躍らせていたのかといえば、例えばこんな箇所が目に留まった。拙いながら、現代語訳させて頂いた。
 なお文中では、蕃山の事を「息游公」と称している。この年、蕃山は67歳で、6年後の元禄4(1691)年に下総古河(しもうさこが。茨城県古河市)で73歳で亡くなっている。

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 貞享2(1685)年
正月4日 息游軒並びに〔蕃山の三男〕蕃山武三郎へ年始書状を遣わす。・・・(中略)・・・

3月  申(さる)の下刻、息游公、俊光宅へ光臨(こうりん)され、宿泊される。
 清水谷實業(しみずだに・さねなり。蕃山の高弟。歌人・貴族)卿が御出でになる。〔漢方医・三好〕宗甫、〔生島〕元庵、眞静、北三州、吉村兵右衛門(別の箇所に吉村六右衛門とある)、来られて対話される。
 愚母妻子、御目にかかる。
    20日、大雨。晴天であれば、息游公、御室(おむろ)へ花見に参ぜられるはずであったのに、雨でそれも叶わず。
・・・(中略)・・・
5月25日 〔越前の人で蕃山の高弟。伊勢神道の渡会延佳の門人〕山本勘齋、来る。終日、荘子について議論し相楽しむ。

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 江戸中期には、正月に年賀状のやり取りをしていることが分かる。
 他人を敬って、その来訪をいう語の「光臨」と言う言葉を使っているあたり、北小路俊光がいかに蕃山を崇敬していたかの現れであろう。
 大名はもちろん、北小路俊光、清水谷實業、中院通茂(なかのいん・みちしげ)らのような、当時第一級の知識人である公卿たちの中でも、トップクラスの公卿たちがこぞって蕃山に師事したのである。蕃山の凄さが窺い知れよう。
 「愚母妻子、御目にかかる」とあるのが、実に微笑ましい。
 御室とあるが、京都府京都市右京区にある地名で、仁和寺(にんなじ。真言宗御室派総本山)の別称。今でも、御室桜の名勝として知られているようだが、江戸時代は、八重桜が多く咲き乱れて京都でも1番と言われるほどの桜の名所であったようだ。
 俊光は、同門の友人と老荘思想の『荘子』についてあれこれ議論を楽しんでいたりしているのである。

◆「友人に対して、苦言をして相手を善い方向に導こうなどということは止めたほうがいい」

 蕃山の説く心学は、実に興味深い。
 一例を挙げると、『書経』にある言葉「蒸々(じょうじょう)として艾(おさ)めて、姦(かん)に格(いた)らしめず」についてこんなことを述べている。茂木光春『大いなる蕃山』(文芸社)を参照させて頂いた。

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「蒸々として艾(おさ)めて、姦(かん)に格(いた)らざらしむ」
という訓点は良くない。
「蒸々と艾(おさ)めて、姦(かん。自分への虐待)を格(ただ)さず」
と読むのが良い。(北小路俊光・編『息先生道談』)

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 朱子学では、「格物」の「格」を「至(いた)る」と読むので、「徐々に善の道を歩かせ、ついに悪に至らしめなかった」という解釈をするのだが、蕃山は、陽明学では「格物」の「格」を「正(ただ)す」と読むので、
「徐々に道を修めて、自分に敵対する相手を正すことはしない」
 と解釈したのである。
 蕃山は、上記の言葉の前にこう述べている。

「友人に対して、苦言をして相手を善い方向に導こうなどということは止めたほうがいい。
それよりも、3年、5年と自分の徳が積もれば、自然と他人も好意的になるものである。言葉で教えることは下策で、自分を損なうだけではなく相手をも損ない、嫌われるだけである。徳を修めるということが、そのまま教えなのである」



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