◆自分に嘘をつくことは、「本当の私」を裏切ることになる
嘘をつくということは、善くないこと、悪い事だとは、誰もが知っている。
ただし、陽明学的に言わせて頂くなら、動機が利己的でなく、相手を思いやって口にした嘘は、悪ではない。
利己心から、あるいは悪意から口にした嘘が善くないのである。
話を戻すが、嘘をつくという場合、自分以外の他人を想定しているのだろうが、自分につく嘘、言い換えれば、自分で自分に約束したことを反故にする、つまり自分で自分を裏切る事も、嘘をついたことになるので、当然、善くないのだ。
誰かを傷つける訳じゃないから、自分につく嘘ぐらいはいいだろう、と思っている人がいるかもしれない。
考えてみてほしい。
悪意からではなく、たまたま誰かに嘘をついてしまう、それも1度ならず、2度も3度も約束を裏切ってしまったとしよう。
この場合、どんなに謝ろうとも、無くした信用を回復することはかなり難しい。言い換えれば、嘘をつくたびに友人が友人として機能しなくなるのである。
自分についた嘘も、実は同じこと。
本来、
「良知(りょうち)を致す」
良知の声の命ずるままに行動することこそ、私欲によって曇らされてきた良知の機能を回復するのに必要なことのはずなのだ。
にもかかわらず、「良知を致す」ことの大切さを知りながら、自分で自分に約束したことを、1度ならず、2度も3度も反故にしていくという事は、良知を、本当の私を裏切ることになる。
他人や友人を裏切るのと同じで、良知からの信用は確実に失われていく、言い換えれば、良知は私欲に曇らされ、機能しなくなっていくことになるのだ。
良知は、是非善悪を知るという機能を持っているのだ。それが機能しなくなるという事は、やっていいこととやってはいけないことの、何が善で悪なのかの判断ができなくなるという事なのである。もちろん、思いやりも発揮できなくなるし、他人の痛みも理解できなくなるのである。
できることなら、他人とも、自分とも、安易な約束はしないことである。
他人や自分と約束したのなら、約束を守ることにベストを尽くさねばならない。
自分を裏切らないこと、自分に嘘をつかない事、これが出来るようになってこそ、自分を信じることが出来るのである。
自分で自分を信じることのできない人間が、誰かに愛してもらおうなど、無理な相談というものだ。
嘘をつくつもりなど全然なくて、諸事情から、結果的に約束を守れないこともある。そんなことも実際あるのだから、より一層「良知を致す」ことに全力を尽くさなければならない、そう自分に言い聞かせているのだが、思ったことの半分も出来ていないように思える。
◆「一言九鼎(いちげんきゅうてい)」とは
中国には
「一言九鼎(いちげんきゅうてい)」
という言葉(諺)がある。
「一言が、国家の宝器である九鼎の重みに相当する」
「一つの約束は、九つの鼎のように重い」 という意味である。
「鼎(かなえ)」は三本の足をもつ器で、宗廟への供えものを盛ることから礼器となり、さらに青銅製の鼎は古代王朝の王権の証とされた。
今でも
「鼎の軽重を問う(問鼎軽重)」
というと、大きな仕事をこなすだけの実力の有無を問われる場面で使われている。
ただし、「鼎の軽重を問う」は、本来は、「統治者を軽んじてその地位を覆そうとする野心のあること」を意味していたが、転じて、「その人の能力などを疑って地位や評判を奪おうとすること」を、さらに現在では、野心や奪うという意を含まずに、単に
「その人の能力の有無を問う」
という意味にも用いられている。
「九鼎」とは、九州(全土のこと)から集めた青銅によって鋳造された鼎のことで、質実ともにとても重いことを意味している。
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