◆「利益(財物)や名声を追い求める生き方は、真の幸せにつながらない。真の道に覚醒せよ。道は心だ」

「陽明学の信奉者であった西郷隆盛や高杉晋作と親しかった坂本龍馬が、王陽明のことを知らないはずがない。ましてや、龍馬が育った土佐藩は、当時、陽明学が藩学であり、陽明学の全盛時代であったのだから」
 そう思って、坂本龍馬と陽明学をテーマとする書を世に問うべく長年構想を温めていたのだが、当時、教育評論社に席をおいておられた安達一雄さんから、
「幕末の陽明学ブームについて書かれた本が一冊もないんですよ、先生、是非、書いて下さい」
 とのご提案を頂戴させて頂き、2011年の秋に
『志士の流儀』
 を上梓させて頂いたのだった。
 それから数年後の本年6月、坂本龍馬が書いた王陽明の漢詩「海に泛ぶ」が
『開運!なんでも鑑定団』
 で披露されたことは、私の推測を裏付ける結果となった。
 龍馬の書とともに、高杉晋作の書も披露されたので、まずは高杉晋作のことから触れさせて頂きたい。
 高杉晋作と言えば、吉田松陰の高弟で、陽明学を奉じたことで知られている。晋作と陽明学ということで言えば、私の脳裏にすぐに思い浮かぶのは、晋作が書いた王陽明の漢詩のことである。
 このことは、拙著『志士の流儀』第2章にも書かせて頂いたことだが、晋作が25~27歳頃のこと、土佐藩士で後に警視総監、学習院院長などの要職を歴任した田中光顕(みつあき)が晋作を訪ねた時のことを語っている。

「私が高杉を訪ねた時に高杉は、王陽明全集を読んでいる際であった。
 高杉が言うには、陽明の詩の中に面白いのがある、といって書いてくれた。

四十余年、睡夢(すいむ)の中
而今(じこん)、醒眼(せいがん)、始めて朦朧(もうろう)
知らず、日すでに亭午(ていご)を過ぎしを
起(た)ちて高楼(こうろう)に向かって、暁鐘(ぎょうしょう)を撞(つ)く


〈王陽明は、亭午(ひる)に至って、暁鐘をついたが、自分は、夕陽に及んで、まだ晩鐘がつけない始末だから情けない〉
 彼は、こう言っていた。
 私は、もとより書生の分際で、立派な表装もできずに、紙の軸に仕立てて、秘蔵した」(『維新風雲回顧録』「坂本龍馬と高杉晋作」)


 王陽明48歳の時の作で、
「睡起偶成(すいきぐうせい)」
 と題された詩の前半部分である。陽明48歳の年といえば、正徳14(1519)年ということで、王陽明にとって生涯の大事件と言っても過言ではない皇族の
「寧王宸濠(ねいおうしんごう)の乱」
 を平定した年である。
 王陽明の詩の中でも、もっとも有名な詩と言ってもいいもので、「平成」という元号の考案者として知られる陽明学者・安岡正篤(まさひろ)も好んだ詩として知られている。

 この詩は、後半部も読まないと大意が掴めないので、以下、後半部分と、後半部を含めた現代語訳を披露させて頂く。

 起ちて高楼に向かい 暁鐘を撞く
 尚(な)お多く昏睡(こんすい) 正(まさ)に懵懵(ぼうぼう)たり
 縦(たと)ひ日暮るるも 醒猶(な)お得ん
 信ぜず 人間の耳 尽(ことごと)く聾(ろう)なるを



「過去四十余年、道理に目覚めなかった。今やっと醒めたが、まだぼんやりしている。昼を過ぎたのも知らず、暁の鐘を撞きに行く。
 鐘を鳴らすのが遅かったかもしれない。それも耳に入らず眠りこけている者が多いだろうが、まさか人々皆が聾者(ろうしゃ。耳が聞こえない人)でもあるまい」


 この漢詩で陽明が言いたいことというのは、
「利益(財物)や名声を追い求める生き方は、真の幸せにつながらない。真の道に覚醒せよ。道は心だ」
 ということで、まさしく世を憂う陽明の心の叫びなのである。
 陽明学の陽明学たるゆえんは、乱暴な物言いを許して頂くなら
「道は心だ」
 にある。

◆「逆境であれ順境であれ、それらに心を煩わせることなどない。それらは、あたかも浮雲が空を通り過ぎるようなものなのだから」

 いよいよ、龍馬が書いた「海に泛ぶ」の漢詩についてである。
 王陽明が36歳の時の作である。
 前年の正徳元(1506)年、時の権力者での宦官の劉瑾(りゅうきん)らの暴政を批判した諫官(かんかん。皇帝を諌める役職)の戴銑(たいせん)らが投獄されるという事件が起き、正義感の強い王陽明は、戴銑らを弁護する上申書を出したのである。
 結果、劉瑾らを怒らせてしまい、同年12月、投獄され、廷杖(ていじょう)四〇の刑に処せられてしまう。尻や太ももを板状の棒で打つという棒打ちの刑で、陽明は四〇回打たれたのである。戴銑の場合は、三〇杖の刑だったが、その傷がもとで亡くなっており、陽明の場合も、尻が砕け、ももの骨が折れるという重傷を負ってしまう。
 傷が癒えるまでの間、寒風吹きすさぶ獄での暮らしを余技なくされた陽明は、獄に居て袖を涙で濡らしながらも『易経』を愛読している。
 やがて貴州省龍場の駅丞(えきじょう)に左遷が決まった。宿場の事務をつかさどる官である。
 翌正徳2(1507)年春、北京を後にし、3名の家僕たちとともに、養生を兼ねながら一路龍場を目指して出発した。
 旅の途中で、劉瑾が放った刺客に狙われ、銭塘江(せんとうこう)に身を投げたように見せかけて商船に乗り込んで危機を脱したものの、嵐に遭い、福建の境界辺りまで流されてしまう。そこから陸路伝いに龍場を目指し、途中の寺で宿を頼んだが、入れてもらえず、荒れた廟で一夜を明かすことになった。
 その廟は、虎の巣だったようで、夜中には虎が吠えた。
 朝になり、陽明が生きていることを知った寺の僧は驚いて
「あなたは常人ではない」
 といって、寺に迎え入れてくれたのである。
 そこで、かつて陽明の結婚式の日に出会った道士・無為道人と再会した。当時、道士とは、二〇年後に海の辺で再会しよう、と約束していたのだった。
 陽明が、事情を話すと、陽明が、このまま逃げれば、親に罪が及ぶことがあるし、英雄には、もともと挫折がつきものだ、と諭された。
 陽明が、この時、筮竹(ぜいちく)による易占いを試みると、「明夷(めいい)」という卦が出たので、龍場へ行くことを決心したのだった。
 道士の言葉に感じ入り、龍場へ行く決心をした時に、本堂の壁に書いた漢詩こそが
「海に泛ぶ」
 であった。

「泛海」

險夷原不滞胸中
何異浮雲過太空
夜静海濤三萬里
月明飛錫下天風


「海に泛(うか)ぶ」

險夷(けんい) 原(もと) 胸中に滞(とどま)らず
何ぞ異ならん 浮雲の太空(たいくう)を過(す)ぐるに
夜は静かなり 海濤(かいとう)三万里
月明(げつめい)に錫(しゃく)を飛ばして天風を下る


逆境であれ順境であれ、それらに心を煩わせることなどない。
それらは、あたかも浮雲が空を通り過ぎるようなものなのだから。
静かな夜の大海原を、月明かりに乗じて錫杖を手にした道士が天風を御しながら飛来する、まるでそんな広大無碍な心境である。(『真説「陽明学」入門、黄金の国の人間学 増補改訂版』参照)


 陽明は、道士から選別を受け取り、次に儒学者・婁諒(ろ・りょう。一斎)を訪ね一泊し、福建省第一の名山で、霊山と言われる「武夷山(ぶいざん)」に登り、南京で父に会い、銭塘に戻って、改めて龍場へと旅立ったのである。
 陽明らは、ほぼ一年かかって無事に龍場に着いたが、そこには住む家も無ければ、飲み水も食料も無かった。北京から5000キロ離れたまさに未開の地であった。生まれて初めて陽明のサバイバル生活が始まった。
 陽明が大悟し、「心即理(しんそくり)」「知行合一(ちこうごういつ)」を提唱するのは、正徳3(1508)年の37歳の時のことである。
「龍場の一悟」
 と言われている。

◆「逆境もよし、順境もよし。 要はその与えられた境遇を素直に生き抜くことである。」

 陽明が、義を貫いて時の権力者に上申書を出したその結果、投獄され、酷い体罰を受け、更には命を狙われ、文化果てる未開の地に左遷され、サバイバルを余儀なくされたわけだが、そうした逆境体験が無ければ、「龍場の一悟」はあり得ないことだった。
 だとすれば、逆境こそが、陽明の大悟を可能にしたといえよう。
 であるのなら、いみじくも漢詩「海に泛(うか)ぶ」に述べているように、
「逆境であれ順境であれ、それらに心を煩わせることなどない」
 わけである。
 何故なら、順境や逆境は、
「あたかも浮雲が空を通り過ぎるようなものなのだから」。
「順境を喜び、逆境を喜べる」
 そんな境地の体得を陽明学では目指している。

 ちなみに、松下幸之助
「逆境もよし、順境もよし。 要はその与えられた境遇を素直に生き抜くことである。」
 という名言を残している。



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