◆『「こんなええもん作りたい」とかな、「人に褒められよ~っ」てあほなこと考えてるうちは、はっ!ロクなもん、でけんわ。

 時折、『男はつらいよ』シリーズの映画を見てきて、今回ほど驚いたことはない。
 もっとも、寅さんの映画というは、驚くほどのものではないのだが、今回の映画は、いろんな意味で、従来の物とは違っていたし、驚くに十分の作品だった。
 1982(昭和57)年夏に公開された
『寅次郎あじさいの恋』
 がそれなのだが、まさしく異色作といっていい。
 この回のマドンナは、「かがり」役の「いしだあゆみ」である。

 まず、驚いたのは、片岡仁左衛門演じる有名陶芸家・加納作次郎のセリフである。
 加納作次郎は、寅さんを前にしてこんなことを語るのである。

『土に触ってるうちにぃ、自然に形が生まれてくるのや。
 こんな形にしようかあ~、あんな色にしようか~ってなこと、こりゃ頭で考えているのとは違うんや。
 自然に生まれてくるのを待つのや、ナァ。けどその「自然」がなかなか難しい…。
「こんなええもん作りたい」とかな、「人に褒められよ~っ」てあほなこと考えてるうちは、はっ!ロクなもん、でけんわ。
 作るでない、掘りだすんや。
 土の中には美しい~い、もんがいてなあ、出してくれ~、はよ出してくれぇ言うて、泣いてんねん』

 京都の陶芸家の加納作次郎とは、きっと京都で活躍した陶芸家・河井寛次郎をモデルにしているのに違いない、と思ったのは、このセリフを聞いてからのことだったのだが、その後、それが的中することになった。
 
 陽明学を学ぶ身の私としては、このセリフには心底驚かざるを得なかった。
 こんな形にしよう、あんな色にしようか、などという作為(考え)は不必要だというのである。
 そして、どんな形にするのかは、土を触っているうちに自然に生まれてくるのを待つのだ、と・・・。
 さらに、「こんなええもん作りたい」とか「人に褒められるようないいものを作りたい」などという思い、つまり私欲があるうちは、本当のいい作品はできない、と。
 この発想は、まさしく陽明学である。

◆「自然に従うことを善という」

 私は、即座に、幕末の陽明学者・山田方谷(ほうこく)を思い出した。
 方谷は、いみじくもこう語っている。

「学問の道というのは誠意(意つまり思いを誠にすること)だけである。意(思い)が発するところに、善があり悪があるのであって、誠とは自然の意味である。自然に従うことを善といい、自然に従わないことを悪というのだ」(林田明大『山田方谷の思想を巡って』)

 方谷は、
「自然に従うことを善という」
 と述べているが、陽明学でいう「良知」を「自然」と言い換えているのである。
 世の中では、意識的に形を作り出すことの方が一般的なのだが、作次郎の場合は、「自然に形が生まれてくる」、言い換えれば、土をこねているうちに自然に形になってくることを信じている、さらに言い換えれば、人智を超えた自然の力に、良知に身を任せるという制作態度なのだ。
 さらに言わせて頂くなら、土の中にある美しいものと言うのは、自然つまり良知のことなのである。い
 というわけで、河井寛次郎の思想を反映したセリフに違いないのだが、繰り返しになるが、このセリフは、まるで陽明学的なので、非常に驚いた次第。

 私が陽明学で大変大きな気付きを得たことというのは、この世には2つの物の見方・考え方がある、という事であった。
「この世は、相対立する二つのものによってできている」
 とする二元論的ものの見方考え方が一つ、もう一つは、
「この世は、もともと一つである。万物は一体、不二である」
 とする一元論的ものの見方・考え方である。
 鈴木大拙は、「思議の世界」と「不思議の世界」と述べている。
 前者は、誰もが実感し、理解できる世界観だが、そこに安住することなく、後者に気づき、実感できるまでになれることを目指すべきなのである。

◆「泰山(たいざん)も、平原の広さには及ばない。しかも平原には何も目につくものがない」
 
 河井寛次郎は、柳宗悦の思想に共感しつつ、こう述べている。〔 〕内は、筆者注。

「私の一生は、一生、美を追った生活に違いないが、思想上の一転機とでもいうべきものがありました。世界は2つある、ということを考えたのです。美を追っかける世界と、美が追っかける世界と。美術の世界と、工業の世界と。
 その頃は〔第一次〕世界大戦の最中で、日本の工業が膨張して好景気の時でした。大正5、6年の頃ですが、その頃、工業製品である無名陶を礼讃して講演をしました。有名は無名に勝てない、ということの発見でした。そういう考えは、自分で陶器を作り出すと直ぐ、自分に来たものでした。それは、柳宗悦が同様のことをいいはじめるのと時を同じくして自分にもたらされた自覚でした」(河井寛次郎『蝶が飛ぶ、葉っぱが飛ぶ』講談社)


 この言葉から、私は、王陽明の以下の言葉を思い出した。

「泰山(たいざん)も、平原の広さには及ばない。しかも平原には何も目につくものがない」(『伝習録』下巻113条)

 中国の泰山と言えば、日本の富士山に相当する有名な霊山である。
 この言葉を通じて、陽明は、
「目立つ泰山を支えている平原の方にこそ、真の偉大さがある。有名人必ずしも偉人ではなく、無名の人にこそ立派な人がいる。名利を求めず、自らの学問充実に努めよ」
 と説いたのである。

 また、河井寛次郎の有名な言葉に、

「暮しが仕事 仕事が暮し」

 というのがある。
 この世の物や物事は、別々だとする世界観からすれば、日常生活と仕事は別々だ、という事になるのだろうが、王陽明や鈴木大拙や河井寛次郎や柳宗悦に言わせれば、仕事と暮らし、日常生活は、一体のものであって、区別できるものではないのだ。

◆「美しいもの作ろうと意図してものを作ると、卑しい心が出てしまって力が弱くなる。無心に、自然に頭の中にあるものが手の働きで形になったときに、真の力が現れてくる。それは形を変えた私自身です。」

 次に、驚かされたのは、陶芸家・加納作次郎の自宅兼仕事場は、なんとあの河井寛次郎(1890~1966)の自宅兼仕事場だったところで、現在の五条坂にある河井寛次郎記念館(京都府京都市東山区鐘鋳町396)だったのだ。
 これは、一目見てすぐに分かったことである。
 とはいえ、私はまだ一度も見に行ったことが無いのだが、テレビや写真で散々見てきているので、印象に残っていたのである。
 記念館の2部屋や庭、仕事場、玄関近く、表、などがロケ地に使われていて、1階は大船のセットだというが、記念館そっくりに造作してあるのだという。
 余談だが、この記念館は、飛騨高山の民家を参考に、寛次郎自らが設計したもので、やはり寛次郎がデザインした家具や調度品が置かれている。
 この2階で、寅さんが起きる部屋も体操するシーンも全てロケで、河井寛次郎記念館の2階の和室と板間を拝借している。

 さらに、最後のシーンでも、ちょっと驚かされた。
 見慣れた風景だなあと思ったら、滋賀県の彦根市の彦根城近くの風景だった。
 そして、作次郎が出てくる屋敷は、井伊直弼の住まいだった『埋木舎(うもれぎのや)』のそばの旧・池田屋敷長屋門(池田斧介の屋敷だった)であった。
 埋木舎は、数カ月前に見学させて頂いたことがあるが、すぐ近くにこの屋敷があるのは知らなかった。この池田氏は、殿様御用使、江戸詰百八十石の井伊家家老で、この旧池田屋敷長屋門は、当時の下級・中級武士の生活をうかがい知るための貴重な資料になっているという。
 
 片岡仁左衛門の演技は実にいいし、聞きどころ、見どころ満載の「男はつらいよ」の異色作であった。

最後に、以下、河井寛次郎の言葉である。

「美しいもの作ろうと意図してものを作ると、卑しい心が出てしまって力が弱くなる。無心に、自然に頭の中にあるものが手の働きで形になったときに、真の力が現れてくる。それは形を変えた私自身です。幾分でも私の思う通りにできたときは、嬉しくて夜でも抱いて愛撫せずにはおれません」(昭和24年「高島屋美術画報」)

 「形を変えた私自身」というのは、
「良知」
「真吾」
「本当の私」
のことである。

人間国宝という栄誉を辞退した日本人の一人が、この河井寛次郎であった。
もう一人いる。北小路魯山人(きたおおじ・ろさんじん)である。拙著で触れているが、北大路魯山人は、陽明学者・細野燕台(えんだい)の弟子であった。



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