◆祖霊たちの部屋で空中浮遊

 25日(金)である。、
 12時半頃に床を払って、驚いた。
 その驚きも、静かなる驚きという表現がぴったりであろうか。
 夢を見ていたのである。
 その夢も、数年ぶり、いや、10年ぶりくらいになるかもしれない、神秘体験もどきの何とも不思議な夢であった。
 もう断片的にしか記憶にないが、余りにも強烈なので、忘れ去るなどということはなさそうだが、それでも些細な個所を忘れてしまわないうちに、書き残しておくことにする。
 BGMは、セロニアス・モンク「Straight,No Chaser」である。

 カウンター・バーに友人(誰だったのかは記憶にない)とよく出入りし、その都度カウンターの中にいる店主らしい男と会話を交わしていたことだけは記憶しているが、いろいろあったすえ、そのいろいろな出来ごとをもう忘れている、実家(和風の古い木造建築)で囲炉裏のある居間の隣にある座敷に入っていった。つい先ほどまで、居間で、親戚、母の実弟の吉村正人氏と談笑していたようである。
 私が居間に入ってきたのは、10畳ほどの座敷の周囲の壁に貼ってある張り紙や、壁の天井近くに掲げられている額の中身が気になったからである。そしてその部屋は、祖霊たちの部屋、という感じのものだった。
 張り紙などにはいったい何が書かれているのか、近寄って見ようと思っていたはずなのに、気づくと、結跏趺坐かあぐらの姿勢になって座っており、それも段々と体が空中へ浮揚し始めたではないか。といっても、最初は、床から数十センチのところで、やがて室内をゆっくりと旋回し始めたのである。驚いているうちに、居間に移動して、そのまま戸外へと飛行し始めたのである。
 私は、これからどうなるのかと、少々不安に駆られたので、叔父に助けを求めたが、叔父も腰が抜けたのか、ただ驚くばかりで、座り込んだまますがるようなまなざしで私の方を見ているだけであった。

 戸外は明るい日中で、私は、空を飛びながら、地上の田舎の農村らしい景色を眺めていた。春の陽気の中を飛ぶのは、実に清々しい気持である。
 しばらくすると、茶褐色の口髭と顎髭を蓄えた外国人(50歳くらいの洋装で、白人らしい)の男が、私に付き添って、一緒に飛行していることに気がついた。
 私の顔のすぐそばに、彼の顔がある。
「あそこへ行くんだね」
 と私がにこやかに話しかけると、
「そうだ」
 と答えてくれた。
 彼は、私のエスコートをする存在のようなのである。
 この時は、不安も微塵もなく、それどころか清々しく晴れやかな気持ちで飛翔していた。
 行く先も私には了解できていたはずなのだが、目覚めた今は、残念ながらもう記憶にない。祖霊たちが集まる場所なのでは、と思っている。
 そのまま一緒に飛行を続けているうちに、目が覚めたというわけである。


 その後、洗濯ものを取り入れようとベランダに出たのだが、いつも見慣れている景色のはずなのに、いつもより少し輝いて見えたのは、ちょっとした驚きであった。また、いつもより心の平安と落ち着きが感じられた。
 この伸びやかな境地が継続出来たら何も言うことないのだが。

◆真理は私たちの中に秘められている 

 何故、久方ぶりにこんな夢を見たのだろう。
 そう思わずにはいられなかった。
 思い当たることといえば、石垣島にお住いの岩崎正春氏から贈って頂いたP・フェルッチ
『内なる可能性』 (誠信書房)
 を床に就く前に流し読みしていて、
「訳者あとがき」
 の一文に目が釘づけとなり、読み返した程驚かされたことがあったくらいである。
 ちなみに、この『内なる可能性』は、「サイコシンセシス(統合心理学)」について書かれた本で、米国ではロングセラーとなっているそうである。
 中江藤樹の「藤樹学」も含めての話だが、陽明学には、
「外の物を遂(追)うな」
 という教えがある。
 文字通り、自分の外側の世界の物を追いかけるな、というのである。
 これが、なかなか皆さんには伝わらないので、苦労を強いられる点なのだが、そうはいっても、この私自身、この教えの理解には確かに時間がかかったのである。
 この教えとまるで瓜二つのことが、書かれてあったのである。
 以下は、私の目が釘づけになった「訳者あとがき」の一節である。

「情報が多く、どんどん変化する現代、私たちは情報におくれまいと必死になるあまり、外に目を向け、解決を求め続けようとしているかもしれません。でも、時代や場所が変わっても、なお、変わらないもの、それは外にではなく、私たち、一人ひとりの中にあるのだとサイコシンセシスではとらえています。本書の13章にあるとおり、真理は私たちの中に秘められているというのです。
 サイコシンセシスでは、まず自分に気づき、気づいたものを意志の働きによって方向づけ、統合していくことを目指します。
 私たちが無意識である部分が大きく、私たちをふりまわしたり、あるいは気づいていないために埋もれたままになってしまうのです。
 私たちの中には素晴らしい可能性があり、それは引き出してゆくことができるのです」


 長くなるので、ここに敢えて詳しくは書かないが、陽明学研究会「姚江(ようこう)の会」のメンバーの中には、石垣島の岩崎氏や私の興奮が少しはお分かりいただける方がいらっしゃるに違いない。
 事実、岩崎氏ご自身も、拙著を一読されて、
「驚いた」
 といった旨のことをおっしゃっていた。
「外の物を遂(追)うな」
 を、逆説的に言えば、小宇宙であるところの自分という人間の完成を目指して、心の内側に目を向けよ、という事なのである。
 世俗での栄達や成功に邁進するのではなく、人間として、自らの人格の完成を目指せ、というのだ。
 つまり、
「修己治人」
 尊敬に値する人間になるべく修養に努めることこそが、人間関係をより良くする、つまりは社会をより良くすること
なのである。
 多くの人たちの悩みや苦悩の源泉は、人間関係なのだ。だというのに、この単純な事実にどうして気づかないの、といいたいのだが・・・。

 私はまだ本書を読み始めたばかりなのだが、それでも「陽明学」と「サイコシンセシス(統合心理学)」には、共通点が多い、と思えるのである。
 参考までに、以下、
「統合心理学(サイコシンセシス)学会」
http://www.psychosynthesis-japan.net/psychosynthesis.html
 からである。

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【サイコシンセシス(Psychosynthesis)】

 サイコシンセシスは20世紀初頭、イタリアの精神科医R.アサジオリによって作られた心理学の一体系です。
 アサジオリは私たちの意識を大きく3つの階層に分けました。そしてそれら意識の中心にあり、私たちの本質とも言える部分を「セルフ」と呼びました。
 そして、その「セルフ」は上位にある
「トランスパーソナルセルフ」
 と繋がることによって、より大きな叡智の源ともいえる集合無意識とつながっています。
 いっぽう、下位無意識にはサブパーソナリティという形で様々な自分がいると考えました。
 分析屋、批判屋、しらけ屋、熱血漢、憤慨屋、ヒステリー、なまけもの、無責任、完全主義者、悲観主義者、お気楽者、 etc
 サブパーソナリティに支配されている時、私たちの本質~セルフが機能しないため、私たちは本来の素晴らしさを発揮できず、ついついいつものパターンを生きてしまいます。
 セルフがサブパーソナリティを受容し統合することによって、その人が本来持っている、個性と輝きを発揮して生きることが可能になってゆきます。
 このように、セルフがその人の指揮をとって自律的に生きて行くことがサイコシンセシスの目的です。



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