◆生き残りをかけて、同業他社や他国に先駆けて新技術開発を迫られている企業が、戦時下ではなく、今でも我が国には存在しているのです。 

『担任、息子の入学式へ…高校教諭勤務先を欠席、教育長が異例の注意』
 という見出しの記事をフェイスブックにUPさせて頂き、私が
「この人は教師になるべきではない」
と吐露したところ、
「教師といえども、人の子、人の親」
「教師には我が子の入学式に出席する事さえ許されないのか?教師の子供には入学式に親が出席することさえ叶わぬ夢なのか?」
 などと言うご意見を頂戴しました。

 埼玉新聞にこうありました。
『県西部の県立高校で50代の女性教諭が長男が通う別の高校の入学式に出席するため、担任を務める1年生の入学式(8日)を欠席していたことが分かった。
 新入生の保護者らは
「今の教員は教え子より息子の入学式が大切なのか」
 と困惑している。』
(2014年4月11日(金))

 それはもちろん、
「ご自分の子供の入学式や卒業式に出席できないのはさぞやお辛いだろうな」
と、私もそう思うのです。
 私の知人・友人の教師たちからも、
「私の勤務する学校の入学式や卒業式に、たまたま自分の子供の入学式や卒業式がバッティングすると、自分の子供の方には出れないんですよ」
 などと聞かされていたので、先刻承知していたことでしたが、私は、てっきり、そういう事態があることを覚悟したうえで教師になっておられるものだとばかり思っていたので、この度の反応にはいささか面喰っています。
 そこで、フェイスブック上に私は、以下のようなコメントを書かせて頂きました。

「熾烈な国際競争の中で、私の友人は誰もがその名を知っているほどの有名な企業に勤める技術者で管理職です。彼の技術者集団の部下の中には、ハード・ワークでノイローゼとなり自殺した人もいます。マスコミには出ないようです。
 それは特別なことと思われるかも知れませんが、優れた人材育成以外に、日本が生き残る道が無いことを自覚しているからこそのプレッシャーが大きな要因です。
 生き残りをかけて、同業他社や他国に先駆けて新技術開発を迫られている企業が、戦時下ではなく、今でも我が国には存在しているのです。そうした使命感を持って会社勤めをしている人たちが現にいるという事を分かって頂きたいと思います。
 私の友人は、彼のせいではないのですが(彼らは皆同じプレッシャーの元に仕事をしているのです)、熾烈な業界に生きていることで苦悩し(明日は我が身かも知れませんから)、辞職を思いつめるようになりましたが、ある不思議な出来事を契機に、続行し、現在に至っています。
 私も友人の教師から、自分の子供の入学式や卒業式に出れないことがある、とは聞いています。その職を選ぶ際には、覚悟すべきだと思います。人並みを望むのなら、熟の教師という道もあります。
 私の父は警察官でしたが、職務上、ほとんど自分の子供たちのそうした晴れの舞台には、出席したことはありません。
 使命感のある人が、最優先でその職に就くべきかと思います。」


 企業名を出すわけにはいきませんので、どうしても私の作り話に思われそうで、説得力に欠けるきらいがある、そう思ったものですから、ちょうどいい機会なので、私の知人(友人の友人)のノンフィクション作家・柳原三佳(やなぎはら・みか)さんのご著書
『泥だらけのカルテ』(講談社)
 にあるエピソードを一つ披露させて頂くことにします。

◆佐々木先生は、命からがら生き延びて、泥だらけになったカルテを必死で拾い集め、多くの犠牲者の身元確認の作業に取り組んだ歯科医師のお一人だったのでした。 

 本書は、3.11の東日本大震災の折の岩手県の歯科医・佐々木 憲一郎氏の体験談がつづられています。
 釜石市鵜住居(うのすまい)で歯科医院を開業する佐々木さんは、「ささき歯科医院」の院長さんです。
 大震災の時には、この地区を大津波が襲い、防潮堤が数百メートルにわたって損壊し、7割近い家が被害を受け、人口6千600人余の内、580人もの人が亡くなり、あるいは行方不明になっています。
 余談ながら、ここの「防災センター」が注目を集めたのは、震災後のこと。
 普段からこの「防災センター」での避難訓練を怠らなかったことから、住民たちの内240~250名の人々が、津波被害を恐れてここに逃げこんだものの、200人以上の人たちが亡くなっているにも関わらず、行政では、
「本来、避難所ではない」
 という判断を下して、責任回避をしたというのです。
 以来、
「釜石の悲劇」
 と称されて、全国に知られるようになったそうです。
 行政の対応は、まさしく詭弁だと思わざるを得ませんし、さらに二重の悲劇を生んだと思います。

 話を戻させて頂きます。
 佐々木先生の歯科医院と自宅は、津波で被害を受け、診療を続けることも住むことも出来なくなったのでした。
 ですが、佐々木先生は、この地に再び住むことを覚悟します。
 というのも、残った住民の歯の治療を続けるという事と、もう一つ、大きな使命を自覚したからです。
 使命というのは、震災で亡くなられた方々の歯を調べることで、身元確認をすることでした。
 佐々木先生は、命からがら生き延びて、泥だらけになったカルテを必死で拾い集め、多くの犠牲者の身元確認の作業に取り組んだ歯科医師のお一人だったのでした。
 それこそ何百もの傷ついた死体を直視するだけでも、大変な作業だったに違いないと思います。

◆「それでも、二人とも、次々と運び込まれる重傷者の手当てや遺体の処置に追われ、この夜、真央ちゃんや両親のことについて、お互いに一言も触れることはありませんでした」 

 
 先ほどの鉄筋コンクリート造り2階建ての「防災センター」が、屋根の部分だけを残して水没したほどの津波被害で、この地区の高台にある家2軒を除き、全て津波に飲まれてしまったといいます。
 これは、その被災当時のことです。
 午後の診療を終えた時、今まで経験したことのない大きな揺れに襲われ、津波のことが頭をよぎったそうです。
 歯科医院と自宅は、海から2キロの海抜10メートルの高さにあり、市から配られていた津波のハザードマップでも、津波による浸水区域には指定されていなかったので、安心していたものの、4千700人分のカルテが散乱したり流されたりしないように棚の扉をガムテープで補強したのだそうで、結果的に、これが功を奏したのでした。
 大きな揺れから約30分が経ったころ、佐々木先生は、突如として家や車や角材が塊となって、土煙りを挙げながらもの凄い勢いで川を逆流してくる光景を目にしたのです。
偉いのは、この時、佐々木先生の
「早く逃げろ、何やってるんだ」
 の呼び声を背に、我が身の危険も顧みず、妊婦の身重の佐々木先生の奥さんが、とっさにAED(止まってしまった心臓に電気ショックを与えるための救急救命医療機器)を持ち出したことです。このAEDは、この後大活躍をすることになるのです。
 佐々木先生夫妻やスタッフは、必死の思いで走りました。
 途中で車いすに乗る老婆を目にして助けに駆け寄ったスタッフに、
「もう、間に合わない!もうダメだ、いいから来い!」
 そういった直後に、津波が彼等を襲い、スタッフはずぶ濡れになりながら命からがら逃げだせたものの、老婆の姿はもうそこにはなかったといいます。
 それほどの緊迫した危機的状況の中、佐々木先生の奥さんは、逃げる途中、木の枝が一方の目に突き刺さり、怪我をしてしまいます。
 浸水を免れた2軒の家の一軒に辿り付き、そこで九死に一生を得た住民たちと70人余と一夜を共にするのですが、家に入りきれない人たちは、外で焚火をして暖を取ったといいます。
 ですが、そこで休んでなどおられません、佐々木先生夫妻とそのスタッフたちは、真っ暗で厳しい寒さの中、重傷者たちの救護に奔走するのです。
 奥さんは、激しい目の痛みをこらえての救護作業でした。
 実は、佐々木先生の2歳になったばかりの娘・真央ちゃんとご両親の安否が確認できていないので、一刻も早く探しに行きたかったそうです。
 柳原さんは、
「それでも、二人とも、次々と運び込まれる重傷者の手当てや遺体の処置に追われ、この夜、真央ちゃんや両親のことについて、お互いに一言も触れることはありませんでした」
 と書いています。
 歯科医師とはいえ、佐々木先生や奥さんも人の子の親です。
 どこかで助けを求めているかもしれないご両親や娘さんの捜索に飛び出して行っても、誰も文句は言えなかったでしょう。

◆自分の都合を優先させるのではなく、自己犠牲を発揮する仕事をするからこそ、生徒や父兄、さらには多くの人たちから尊敬されるのではないでしょうか。

 
 私の亡父も、若いころは、駐在所に勤務する警察官でしたので、自宅が水害に襲われたときも、身の危険もあったでしょうが、自分の管轄地区のパトロールの仕事を放棄することはありませんでした。
 私の父は、その仕事を選んだ時に、すでにそうした自己犠牲は覚悟していたと思います。医師や自衛隊員や消防士も然りでしょう。
 自分の都合を優先させるのではなく、自己犠牲を発揮する仕事をするからこそ、生徒や父兄、さらには多くの人たちから尊敬されるのではないでしょうか。

 国の内外を問わず、日本の「武士道」が賞賛されるのは、騎士道には無くて、武士道にしかないもの、「自己犠牲」があるからです。
 三島由紀夫は、武士道を定義してこう語っています。以下私の意訳です。
 武士道の定義は、「自己責任」「自己尊厳」「自己犠牲」の3つである。この内、「自己責任」「自己尊厳」は西洋の騎士道にもあるが、「自己犠牲」は武士道にしかない。


 最後に陽明学的な話を付言させて頂きます。
 
 大地震の後、佐々木先生の頭を津波のことがよぎりました。さらには、ガムテープでカルテの入った棚を補強しました。いずれも、ふと思いついたことですが、私に言わせて頂くなら、良知のなせる業でした。
 また、逃げる時、先生の奥さんが、危険を顧みずとっさにAEDを持ち出します。これも、良知のアドヴァイスだったことは間違いありません。
 
 





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