◆龍馬が生まれ育った幕末期の土佐藩は、陽明学全盛時代だった 

 本当に、これは驚くべき大発見である。
 ここで私がああだこうだという場合ではない。
 コピペと言われようが、記事を掲載したほうが話が早い。 

 その前に、一言、語らせて頂きたい。
 坂本龍馬が生まれ育った頃の幕末期の土佐藩は、陽明学全盛時代であった。
 だというのに、あの司馬遼太郎もこの事実には触れなかったし、その他の作家や研究者たちも、この事実を知ってか知らずか、これまで語ることはなかった。
 そこで、私がそのことを知らべに調べて書きあげたのが
『志士の流儀』(教育評論社)
 であった。
 ただし、そのことに触れたのは、『志士の流儀』の一部であって全部ではないが、それでも坂本龍馬の生きた時代の土佐藩が、陽明学の全盛時代であったことを初めて公開したのが本書なのである。
 調べてみて、私自身が驚いたほど、幕末期の土佐藩は、一大陽明学ブームだったのだ。
 土佐藩の藩学が陽明学であった時代に生まれ育った坂本龍馬が、陽明学を知らないはずはないのである。
 さらに言えば、龍馬の親しい人物のほとんどが、高杉晋作や西郷隆盛や横井小楠、近藤長次郎、間埼滄浪、武市半平太らがそうなのだが、陽明学を学んでいたのだから。
 ついでながら、今回発見された龍馬の手紙の中で、三岡八郎と会った話が出ているので、『志士の流儀』には紙面の都合で割愛せざるを得なかった部分に触れていたことを思い出したので、以下に抜粋披露させて頂く。

『当時、福井藩にいる横井小楠を訪ねて夜遅くやってきた龍馬と小楠は、足羽川の川岸にある小楠の屋敷の、ちょうど対岸にある由利公正(三岡八郎)邸に小舟で向かった。
 宴会から帰宅したばかりだという由利公正と3人で酒を飲んだのだが、その酒席で龍馬が詠んだのが、冒頭に掲げた歌であった。
 この歌を聴いた小楠と公正は、拍手喝采し、その後、この歌は、福井藩士の間に広がり、宴席でよく歌われたという。』

 これが、龍馬の歌である。

『君がため
捨つる命は惜しまねど
心にかかる
国の行く末』



 以下、「NHK・NEWSWEB」2014年(平成26年)4月8日[火曜日]、からである。
 
///////////////////////////////////////

 【龍馬直筆の手紙の草稿見つかる】 
4月7日 22時55分


 幕末の志士、坂本龍馬が暗殺される直前に土佐藩の重臣、後藤象二郎宛てに書いたとみられる手紙の草稿が東京都内の民家で保管されていたことが分かりました。
 龍馬が新政府で重要な財政担当の適任者を選び出すいきさつが書かれていて、専門家は
「全く存在が知られていなかったもので、大変な発見だ」
 と話しています。
 これは、東京都内の男性が30年以上前に骨とう品売り場で購入したのを自宅で保管していたもので、NHKの番組の取材過程で見つかりました。
 複数の専門家が鑑定したところ、筆跡や内容から坂本龍馬の直筆とみて間違いないと判断しました。
 鑑定によりますと、龍馬が慶応3年、1867年の11月15日に京都で暗殺される1週間ほど前に土佐藩の重臣、後藤象二郎に送った手紙の草稿だということです。
 この中で龍馬は、江戸幕府が朝廷に政権を返上する「大政奉還」の直後、新政府の財政担当の候補だった福井藩の藩士、三岡八郎に会いに行き、後藤にその結果を報告しています。
 三岡八郎は、福井藩の財政再建で手腕を振るった人物で、後に由利公正と名を改め、五箇条の御誓文の起草者としても知られ、明治新政府では初期のころに金融や財政に携わりました。
 手紙の草稿の中で、三岡が江戸幕府の帳面を調べた結果、幕府の財政政策が旧態依然として
「気の毒」
 だと評していたことが書かれています。
 そのうえで、龍馬は新政府の財政を任せられるのは三岡をおいてほかにはいないと後藤象二郎に進言しています。
「大政奉還」の直後に、龍馬が三岡と面会したという記録は残っていましたが、龍馬がそのいきさつを書いたとみられる手紙の草稿が見つかったのは初めてです。
 鑑定者の1人、京都国立博物館の宮川禎一企画室長は
「これまで全く存在が知られていなかったもので、大変な発見だ。新政府を作るにあたって、財政の重要性を理解していた龍馬の思想や考えを知るうえでも貴重な資料だ」
 と話しています。

 手紙には生々しいやり取りも

 今回発見された手紙の草稿は、江戸幕府が朝廷に政権を返上する「大政奉還」が成立したあとに、坂本龍馬が新政府の財政運営をどうするか、構想を練っていたことを裏付けるものとして、専門家が注目しています。
 慶応3年10月15日(1868年11月10日)、土佐藩の建白書に基づき、大政奉還が実現すると、龍馬は土佐藩の重臣、後藤象二郎の命を受け、北陸の福井藩に向かいました。
 新政府の財政担当者として、福井藩の財政再建で活躍した三岡八郎、後の由利公正と会うためです。
 このとき、三岡は福井藩内部の対立に巻き込まれ、謹慎処分を受けていたので、面会するためには主君である福井藩主・松平春嶽の許しが必要でした。
 龍馬は松平春嶽とは面識があり、三岡とも親しかったため、使者として選ばれ、急いで福井藩を訪れたのです。
 手紙の草稿によりますと、龍馬は松平春嶽には面会することはできなかったものの、藩士の立ち会いのもと、三岡八郎と会うことができ、三岡が
「私は悪党なので、番人が一緒に来ました」
 と冗談を言うと、立会人もそれを聞いて笑ったというエピソードが書かれています。  
 龍馬と三岡はその場で政治情勢について話し合ったということで、手紙には松平春嶽が江戸幕府の「政事総裁職」という要職にあったときに、部下の三岡が幕府の財政について帳面を基に調べたと書かれています。
 三岡は藩札という紙幣を独自に発行するなどして福井藩の財政再建に腕を振るったことで知られていて、手紙の草稿の中で、三岡が江戸幕府の帳面を調べた結果、幕府の財政政策が旧態依然として
「気の毒」
 だと評していたことが書かれています。
 この手紙の草稿は、文面にある日付から龍馬が福井から京都に帰った11月5日以降に書かれたものとみられ、手紙の最後で、龍馬は新政府の財政を任せられる人材は三岡をおいてほかにはいないと、後藤象二郎に進言しています。
 龍馬はその直後、11月15日に暗殺されましたが、三岡八郎は新政府最初の紙幣、「太政官札」の発行や、現在の国債に当たる「会計基立金(もとだてきん)」の募集などの財政政策に携わりました。
 こうしたいきさつは、三岡の回顧談にも記されていますが、今回、会談の直後に龍馬がしたためた生々しいやり取りが初めて見つかり、今後の龍馬研究にも役立つと注目されています。

 「龍馬の直筆」決め手は独特の筆跡

 見つかった手紙の草稿が龍馬の直筆であると鑑定された決め手の1つとされたのが、龍馬独特の筆跡です。
 例えば、京都国立博物館に所蔵されている龍馬が妻の「おりょう」に宛てた手紙の筆跡と比較すると、「後藤」、「此」などの文字の書き方の癖が一致しているということです。
 また、書かれていた龍馬の実名「直柔」(なおなり)の署名も、龍馬が新政府の政治綱領を書き記した書、「新政府綱領八策」などに書かれた署名と一致しているということです。
 また、龍馬は手紙を書く際、紙の上下にあまり余白を作らず、上から下まで使いきるように文字を書く癖があり、今回見つかったものもこの癖がよく現れていました。
 さらに、書かれていた内容の具体性も判断の決め手とされました。
 龍馬の手紙として発見されるものには偽物もありますが、こうした偽物は内容を「例の件」などとぼかし、ごく短い手紙の一部を装ったものが多いということです。
 しかし、今回は龍馬と三岡八郎の具体的なやり取りが生々しくつづられ、偽造したものとは考えにくいということです。
 龍馬に関する歴史資料の研究に詳しい京都国立博物館の宮川禎一企画室長は、
「文字は第一印象で龍馬に間違いないと思いました。細部を比べても問題ありませんし、全体の印象から見ても龍馬の真筆であることは疑いようがないものです」
 と話しています。

 この手紙の草稿は、NHKの番組の取材で明らかになったもので、詳しい過程はNHK総合テレビ、12日夜8時からの「突撃!アッとホーム」でお伝えします。




にほんブログ村


人気ブログランキングへ

記事を気に入った方、
上記のいずれかの応援クリックをお願いします。