◆人々の心に自分中心の強い思いがある限り、根本的な解決には至らない
28日(金)である。
陽明学的観点から、どうしたらいじめを減らすことができるのかについて、折に触れて話をさせて頂いているのだが、私のような発言を未だ耳にさせて頂いたことはない。
昨今の目前に迫ったいじめ問題に関しては、とにかく、
・一刻も早く親がその兆候に気づくこと、
・学校をあてにしないで、加害生徒との親と直接交渉すること、
・緊急避難で、学校と教育委員会に届けて、学校への登校をさせないこと、
が挙げられる。
なぜなら、このところ、学校に相談しているうちに、対応が間に合わず自殺してしまうケースが相次いでいるからである。
そして、いじめ問題に詳しい
「全国いじめ被害者の会」大澤秀明・代表などに相談することである。
私の経験から言っても、PTAや地元密着のはずの市会議員レベルは、なんら具体策を持っておらず、役に立たない。
また、真摯に対応してくれる校長や教師に出会うことは、希(まれ)と言っていいだろう。
さて、陽明学的観点から、私なりのいじめ問題の解決策を述べさせていただく。
王陽明は、54歳の時に「抜本塞源(ばっぽんそくげん)」論(『伝習録』中巻)を説いている。
「抜本塞源」についてである。
「本」は木の根、「源」は水源のこと。
「本(もと)を抜(ぬ)き、源(みなもと)を塞(ふさ)ぐ」
と訓み、木の根を抜き、水源をふさぎ止める意から
「災いの原因になるものを、根元(ねもと)から徹底的に取り除くこと」
を意味している。
ここでいきなり結論めいた話をさせて頂くなら、いじめ問題の解決法は、この「抜本塞源」論にあるといっていい。
小手先のその場しのぎの対応ではなく、
「大本から正す」
ということである。
なぜ、陽明が「抜本塞源」論を説いたのかといえば、法律や制度をいくら優れたものに整備しなおしても、あるいは優れたリーダーが登場しようとも、どんなに正論を吐こうとも、人々の心に自分中心の強い思いがある限り、根本的な解決には至らないからである。
◆「Schadenfreude(シャードンフロイダ)」
かつて、拙著『イヤな「仕事」もニッコリやれる陽明学』にこう書かせて頂いた。
「大自然のなかに神々しさを感じるのは、私たちの内部に神々しいものがあるからであり、残酷な事件に残忍性を感じるのは、私たちの内部に残忍性があるからだ」
と。
こうした見解は、陽明学というよりも、むしろゲーテの
「われわれの外にあるもので、同時にわれわれの中にないようなものはないのだ。そして外部の世界がその色彩をもっているように、目もやはりその色彩をもっている」(エッカーマン『ゲーテとの対話』)
に基づいているのだが、拙著『真説「陽明学」入門』で説かせて頂いたように、ゲーテ的世界観は、王陽明の見解と一致するので、ここでゲーテの言葉が引用されることに、どうか不思議には思わないで頂きたい。
話を「大自然のなかに神々しさを感じるのは、・・・」の言葉に戻させて頂く。
今から約200年も前のゲーテの言葉は、実を言うと、科学的にも実証されている。例えば、太陽光を含む光は、太陽が、私たちの外部世界に存在しているように、私の外に存在していると思いがちだが、
「光は、物質の内部にも存在する」
ことが科学の世界でも実証済みのことなのである。
光が、私の内部にも存在するからこそ、外部世界に光を目にしたとき、それが光りであることが分かるのだ。
いみじくも、日本語には
「人の不幸は蜜の味(他人の不幸は蜜の味)」
などという言葉があるが、英語では
「Schadenfreude」
とか
「take pleasure in the misery of others 」
と言うようだ。
この場合、注意すべきは、
「Schadenfreude(シャードンフロイダ)」
の方である。
ものの本には、ネイティブでもこの単語を知らない人がいるというが、私自身、生まれて初めて耳にする単語である。
「この単語は、英語的ではないなあ」
そう思いながら、ためしに『THE ANCHOR COSMICA』を紐解いてみた。
そこには、なんと
「ドイツ語から」
とあるではないか(笑)。
続けて、
「他人の不幸・災難を喜ぶ気持ち」
と記してあった。
ちょっと長くなるが、さらにこの単語のことである。
「毒を食らわば皿まで」
とドイツ語の辞書をひいてみた(笑)。
「Schaden」
という単語があり、
「① 損害、損失②傷害、傷、疾患、不具」
という意味があるという。
ちなみに、頭のsが小文字の
「schaden」
というのは動詞で
「①害する、傷つける、損なう」
という意味がある。
そして、ドイツ語辞典の中に
「Schadenfreude」
という単語を見つけた。
で、意味はというと
「他人の不幸を喜ぶこと、ざまをみろという気持ち」
とあった苦笑)。
ドイツ語が、そのまま英語として通用しているのである。
参考までに、中国語では
「幸災楽禍 (他人の災いを見て楽しむこと)」
と言うようだ。
◆他人の心の中をどうこうすることなどできないのだから、自分の心の中にある私欲を減らす努力、これがいじめ撲滅、ひいては犯罪撲滅への第一歩なのである。
大変興味深いことに、妬みの対象の人物に不幸が起こると、心地よい感情が生まれることは、科学的にも証明されているというが、私たちの心の内部には、人をからかい、いじめて喜ぶ気持ちが存在しているのである。
残酷なシーンを見て、
「なんて残酷なんだ」
とか、
「かわいそうだなあ」
というふうに、残酷さや可哀想な状況がわかるということは、私たちの心の中にも、同じく残酷さや憐れみの優しい気持ちがあるということなのである。
何が言いたいのかというと、私たちの心の中にも、いじめっ子と同じ他人の不幸を見て喜ぶ気持ちがあるのだ。そして、そうした良くない思いは、自分中心の思い、つまり私欲から発しているのである。
である以上、声高らかにいじめ撲滅を叫ぶのなら、まずは私たちの心の中にある良くない思い、言い換えれば、私欲、自分中心の思いを減らすこと、王陽明の言葉を借りるなら、
「心を正すこと(正心)」(『大学』)
であり、
「意(思い)を誠にすること(誠意)」(同上)
を抜きにしては、実現できるはずもないのである。
他人の心の中をどうこうすることなどできないのだから、自分の心の中にある私欲を減らす努力、これがいじめ撲滅、ひいては犯罪撲滅への第一歩なのである。
さて、そこで、
「心を正せ」
「私欲を減らせ」
と言われても、かつて、私自身、一体どうやったらいのか戸惑うばかりだったが、今では
「良知を致す」
言い換えれば、日常生活や仕事の現場で、
「思いやりを発揮する」
ことを心がけるだけで十分であることを実感している。
もっと具体的に言うなら、悪いことを思わずただ掃除をすること、良くない思いを抱くことなくただ茶碗を洗うこと、こうしたことも「良知を致す」なのである。無理して良いことだけを思おうなどと、自分に無理強いする必要などないのだ。
自分に甘く、他人に厳しくが一般的だと思うが、私も含めての話だが、自分に甘い人は、周囲の人々にそれ相応の負担をかけていることを自覚し、自分を律して生きることを心がけていきたいものである。
自分を律して生きていればこそ、その人の周囲の人々は幸せになれるというものだ。やることなすこと雑でいい加減な人の身近にいる人は、その分負担がかかってくるので、決して幸せとは言えないのだから。
王陽明は、「抜本塞源」論の中でこう語っている。
「聖人の学は、日々遠く明らかでなくなり、功利(幸福と利益)を主とする風習の下、人々は(功利を)志向して、ますます品性を堕落させてしまった。
その間、無定見に仏教や老荘思想に迷い込んだ時代もあったが、仏教や老荘思想の説も結局、〈功利の心(私欲)〉を負かすことができなかった。
さらに群儒(儒学者)の説の妥当なものを取り集めた時代もあったが、群儒の論もまた結局、功利の考えを崩(くず)すことはできなかった。
今に至るまで、功利の毒は人の心の奥底にまで入り込み、功利(得することだけ)を追う行動を続けたため、それが天性のようになり(本来の天性・本性を失って)、ほとんど千年になる。
これが社会の最も本源的な病弊である。この本(もと)を抜き、源(みなもと)を塞(ふさ)がなければ(抜本塞源:ばっぽんそくげん)人間は救われない。そうしてよくこの病弊の本を抜き源を塞ごうとする者は、真に豪傑の士でなければならない」
上記、王陽明の言葉には、仏教や老荘思想でも、自己中心の思いを減らすことはできなかったし、儒教(朱子学)でもできなかったが、陽明学でなら可能だ、というニュアンスを含んでいる。
そして、王陽明は、人々は、知識や技術を増やすことだけを考えていて、自分の心の中の良くない思いを減らすことの大切さに、これっぽっちも気づいていない、と嘆いているのである。
私自身、王陽明の言葉を信じようと努めているひとりである。
繰り返しになるが、「抜本塞源」論を言い換えれば、
「私心を克服すること」であり「心を正す」ことであり「天理を存し、人欲を去る」ことであり、「良知を致す(良知を発揮する)」ことである。
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28日(金)である。
陽明学的観点から、どうしたらいじめを減らすことができるのかについて、折に触れて話をさせて頂いているのだが、私のような発言を未だ耳にさせて頂いたことはない。
昨今の目前に迫ったいじめ問題に関しては、とにかく、
・一刻も早く親がその兆候に気づくこと、
・学校をあてにしないで、加害生徒との親と直接交渉すること、
・緊急避難で、学校と教育委員会に届けて、学校への登校をさせないこと、
が挙げられる。
なぜなら、このところ、学校に相談しているうちに、対応が間に合わず自殺してしまうケースが相次いでいるからである。
そして、いじめ問題に詳しい
「全国いじめ被害者の会」大澤秀明・代表などに相談することである。
私の経験から言っても、PTAや地元密着のはずの市会議員レベルは、なんら具体策を持っておらず、役に立たない。
また、真摯に対応してくれる校長や教師に出会うことは、希(まれ)と言っていいだろう。
さて、陽明学的観点から、私なりのいじめ問題の解決策を述べさせていただく。
王陽明は、54歳の時に「抜本塞源(ばっぽんそくげん)」論(『伝習録』中巻)を説いている。
「抜本塞源」についてである。
「本」は木の根、「源」は水源のこと。
「本(もと)を抜(ぬ)き、源(みなもと)を塞(ふさ)ぐ」
と訓み、木の根を抜き、水源をふさぎ止める意から
「災いの原因になるものを、根元(ねもと)から徹底的に取り除くこと」
を意味している。
ここでいきなり結論めいた話をさせて頂くなら、いじめ問題の解決法は、この「抜本塞源」論にあるといっていい。
小手先のその場しのぎの対応ではなく、
「大本から正す」
ということである。
なぜ、陽明が「抜本塞源」論を説いたのかといえば、法律や制度をいくら優れたものに整備しなおしても、あるいは優れたリーダーが登場しようとも、どんなに正論を吐こうとも、人々の心に自分中心の強い思いがある限り、根本的な解決には至らないからである。
◆「Schadenfreude(シャードンフロイダ)」
かつて、拙著『イヤな「仕事」もニッコリやれる陽明学』にこう書かせて頂いた。
「大自然のなかに神々しさを感じるのは、私たちの内部に神々しいものがあるからであり、残酷な事件に残忍性を感じるのは、私たちの内部に残忍性があるからだ」
と。
こうした見解は、陽明学というよりも、むしろゲーテの
「われわれの外にあるもので、同時にわれわれの中にないようなものはないのだ。そして外部の世界がその色彩をもっているように、目もやはりその色彩をもっている」(エッカーマン『ゲーテとの対話』)
に基づいているのだが、拙著『真説「陽明学」入門』で説かせて頂いたように、ゲーテ的世界観は、王陽明の見解と一致するので、ここでゲーテの言葉が引用されることに、どうか不思議には思わないで頂きたい。
話を「大自然のなかに神々しさを感じるのは、・・・」の言葉に戻させて頂く。
今から約200年も前のゲーテの言葉は、実を言うと、科学的にも実証されている。例えば、太陽光を含む光は、太陽が、私たちの外部世界に存在しているように、私の外に存在していると思いがちだが、
「光は、物質の内部にも存在する」
ことが科学の世界でも実証済みのことなのである。
光が、私の内部にも存在するからこそ、外部世界に光を目にしたとき、それが光りであることが分かるのだ。
いみじくも、日本語には
「人の不幸は蜜の味(他人の不幸は蜜の味)」
などという言葉があるが、英語では
「Schadenfreude」
とか
「take pleasure in the misery of others 」
と言うようだ。
この場合、注意すべきは、
「Schadenfreude(シャードンフロイダ)」
の方である。
ものの本には、ネイティブでもこの単語を知らない人がいるというが、私自身、生まれて初めて耳にする単語である。
「この単語は、英語的ではないなあ」
そう思いながら、ためしに『THE ANCHOR COSMICA』を紐解いてみた。
そこには、なんと
「ドイツ語から」
とあるではないか(笑)。
続けて、
「他人の不幸・災難を喜ぶ気持ち」
と記してあった。
ちょっと長くなるが、さらにこの単語のことである。
「毒を食らわば皿まで」
とドイツ語の辞書をひいてみた(笑)。
「Schaden」
という単語があり、
「① 損害、損失②傷害、傷、疾患、不具」
という意味があるという。
ちなみに、頭のsが小文字の
「schaden」
というのは動詞で
「①害する、傷つける、損なう」
という意味がある。
そして、ドイツ語辞典の中に
「Schadenfreude」
という単語を見つけた。
で、意味はというと
「他人の不幸を喜ぶこと、ざまをみろという気持ち」
とあった苦笑)。
ドイツ語が、そのまま英語として通用しているのである。
参考までに、中国語では
「幸災楽禍 (他人の災いを見て楽しむこと)」
と言うようだ。
◆他人の心の中をどうこうすることなどできないのだから、自分の心の中にある私欲を減らす努力、これがいじめ撲滅、ひいては犯罪撲滅への第一歩なのである。
大変興味深いことに、妬みの対象の人物に不幸が起こると、心地よい感情が生まれることは、科学的にも証明されているというが、私たちの心の内部には、人をからかい、いじめて喜ぶ気持ちが存在しているのである。
残酷なシーンを見て、
「なんて残酷なんだ」
とか、
「かわいそうだなあ」
というふうに、残酷さや可哀想な状況がわかるということは、私たちの心の中にも、同じく残酷さや憐れみの優しい気持ちがあるということなのである。
何が言いたいのかというと、私たちの心の中にも、いじめっ子と同じ他人の不幸を見て喜ぶ気持ちがあるのだ。そして、そうした良くない思いは、自分中心の思い、つまり私欲から発しているのである。
である以上、声高らかにいじめ撲滅を叫ぶのなら、まずは私たちの心の中にある良くない思い、言い換えれば、私欲、自分中心の思いを減らすこと、王陽明の言葉を借りるなら、
「心を正すこと(正心)」(『大学』)
であり、
「意(思い)を誠にすること(誠意)」(同上)
を抜きにしては、実現できるはずもないのである。
他人の心の中をどうこうすることなどできないのだから、自分の心の中にある私欲を減らす努力、これがいじめ撲滅、ひいては犯罪撲滅への第一歩なのである。
さて、そこで、
「心を正せ」
「私欲を減らせ」
と言われても、かつて、私自身、一体どうやったらいのか戸惑うばかりだったが、今では
「良知を致す」
言い換えれば、日常生活や仕事の現場で、
「思いやりを発揮する」
ことを心がけるだけで十分であることを実感している。
もっと具体的に言うなら、悪いことを思わずただ掃除をすること、良くない思いを抱くことなくただ茶碗を洗うこと、こうしたことも「良知を致す」なのである。無理して良いことだけを思おうなどと、自分に無理強いする必要などないのだ。
自分に甘く、他人に厳しくが一般的だと思うが、私も含めての話だが、自分に甘い人は、周囲の人々にそれ相応の負担をかけていることを自覚し、自分を律して生きることを心がけていきたいものである。
自分を律して生きていればこそ、その人の周囲の人々は幸せになれるというものだ。やることなすこと雑でいい加減な人の身近にいる人は、その分負担がかかってくるので、決して幸せとは言えないのだから。
王陽明は、「抜本塞源」論の中でこう語っている。
「聖人の学は、日々遠く明らかでなくなり、功利(幸福と利益)を主とする風習の下、人々は(功利を)志向して、ますます品性を堕落させてしまった。
その間、無定見に仏教や老荘思想に迷い込んだ時代もあったが、仏教や老荘思想の説も結局、〈功利の心(私欲)〉を負かすことができなかった。
さらに群儒(儒学者)の説の妥当なものを取り集めた時代もあったが、群儒の論もまた結局、功利の考えを崩(くず)すことはできなかった。
今に至るまで、功利の毒は人の心の奥底にまで入り込み、功利(得することだけ)を追う行動を続けたため、それが天性のようになり(本来の天性・本性を失って)、ほとんど千年になる。
これが社会の最も本源的な病弊である。この本(もと)を抜き、源(みなもと)を塞(ふさ)がなければ(抜本塞源:ばっぽんそくげん)人間は救われない。そうしてよくこの病弊の本を抜き源を塞ごうとする者は、真に豪傑の士でなければならない」
上記、王陽明の言葉には、仏教や老荘思想でも、自己中心の思いを減らすことはできなかったし、儒教(朱子学)でもできなかったが、陽明学でなら可能だ、というニュアンスを含んでいる。
そして、王陽明は、人々は、知識や技術を増やすことだけを考えていて、自分の心の中の良くない思いを減らすことの大切さに、これっぽっちも気づいていない、と嘆いているのである。
私自身、王陽明の言葉を信じようと努めているひとりである。
繰り返しになるが、「抜本塞源」論を言い換えれば、
「私心を克服すること」であり「心を正す」ことであり「天理を存し、人欲を去る」ことであり、「良知を致す(良知を発揮する)」ことである。
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