■「心の中に、もし少しでも私欲が生じれば、直(ただ)ちにそれに気付き、気付けば直ちに正す」 

 9日(土)である。
 パソコンが初期化されて帰ってきたのは、今回で2度目である。
 元の状態に戻すことは不可能だとしても、元のように仕事ができる状態にできるようにするのに、この数日、時間がとられている(苦笑)。
 プロバイダーに連絡して、ウイルス対策のソフトを復帰してもらったり、プリンターとの接続作業やブログの復旧にも意外に時間がかかった。
 それでも、復旧作業を通じて、パソコンについての知識を吸収できているのは確かである。
何事であれ、決して、マイナスばかりではない。

 午後6時から、池袋で、楳山氏、中村氏、鈴木氏、豊田氏、中田氏、大屋氏の出席のもと、「姚江の会」を開催。
 テキストは、伊香賀隆「王龍渓の〈格物〉について」である。

『「纔(わず)かに動けば即ち覚し、纔(わず)かに覚せば便ち化す」
 つまり、
「心の中に、もし少しでも私欲が生じれば、直(ただ)ちにそれに気付き、気付けば直ちに正す」
 という工夫こそ、まさに王龍渓思想の中核である。』
(同上)

 は、今回読んだ部分のキーワードである。

■「心が虚であることが、心斎である」
 
 話は変わる。
 王陽明の門人で、王学左派と称される一派の一人に王心斎(齋)という人物がいる。
 この
心斎(しんさい)」
 という名前は、とても興味深い。
「心を清める。不正な心や、悪い心を払う」
 という意味があり、『荘子』人間世(じんかんせい)篇にある言葉である。
 江戸期の武士、たとえば陽明学者・佐藤一斎や土佐陽明学の奥宮慥斎(おくのみや・ぞうさい)などのように、「斎」の字を名前に持つ人が多いのだが、
「斎」
 には
「ものいみ」「いえ」
 の他に、
「つつしむ」
 という意味もあり、名前に「斎」の一字をつけたのは、謙虚さの表現であったのだろう。

 ところで、『荘子』人間世(じんかんせい)篇にある「心斎」の個所を、以下に紹介させて頂く。ただし、その個所は長いので、抜粋である。

 ここでいう「心斎」とは、
心の斎戒(飲食や行動を慎み、心身を清めること)」
 のことだが、孔子の門人の顔回が、孔子にその「心の斎戒」について質問をしたのである。

 顔回がいった。
「あえて〈心斎〉のことをお聞かせ願います」
 孔子はいった。
「おまえの心を純一にせよ。
 耳で聴くことなくして、心で聴け。いや、心で聴くことなくして、気で聴け。耳は音を聴くだけであり、心はものに応ずるだけのものだ。
 これに対して、気とは、自らは虚であって一切の物を包み込むものである。
 道はこの虚に集まるものだ。
 この心が虚であることが、心斎である」
(森三樹三郎『老子・荘子』Ⅲ老子・荘子の書、参照)

 王心斎は、心を虚に保つことに、言い換えれば、不正な心や悪い心を払い、心を中庸の状態に保つことに努めたのである。
「虚」を、言い換えれば
「誠」「至善」「中庸」「良知」
 であり、王心斎と同じく王学左派の王龍渓(おう・りゅうけい)などは
「無」
「空」
 と言い換えている。
 とはいえ、一般的に、心を善念で満たすことこそが、真の善人や人格者や聖人になるためには必要だと思われているようだが、それは間違いなのである。


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