■「考えるとか思うということをしない」というのと「まるで考えない、思わない」というのには、ニュアンスの違いがある

 
22日(土)である。
 この数日、
「瓦を磨いて鏡となす」
 という禅語に関わっている。
「瓦を磨いて鏡となす」
 という言葉は、『伝燈録』『祖堂集』にある、南岳懐譲(なんがくえじょう)和尚と弟子の馬祖道一(ばそどういつ。どういちも可)の問答にある。
 私見とは言え、私なりの見解はあるのだが、それにつけても無数の解釈があることに、少々驚きを禁じ得ない。
 その中には、禅に関してはまだまだ未熟者の私から見ても論外と断定できるものも含まれていて、困ったことには、そうした見解がネット上に流れているのである。
ネット上にある様々な見解は、それが「ウィキぺディア」であっても、あくまでも参考にとどめるべきなのである。
 以下、あくまでも私の試論であることをお断りさせて頂く。
 現在執筆中の原稿に掲載するかもしれない、いわゆる下書きなのだが、一読されて、私の浅学非才ぶりに驚かれた方、是非ご教示を願いたい。

 禅も陽明学も、頭で、考えて理解できる類のものではない。
 論理ではないからだ。
 だからと言って、神秘でもない。
 禅では、
「非思量(思量にあらず)」
 と説く。
「不思量(思量せず)」
 ではない。
「非思量」と「不思量」の違いを、私なりに説明させて頂く。
 思量とは、
「思うこと。考えること」
 である。
 私に言わせて頂くなら、
「考える、思うということではない」
 言い換えれば
「考えるとか思うということをしない」
 ということなのだ。
 だが、その
「考えるとか思うということをしない」
 というのと
「まるで考えない、思わない」
 というのには、ニュアンスの違いがある。

■歩くぞとの思いと歩くという行為とが、分裂する時がある。

 例えば、歩くという行為がある。
 誰であれ、歩こうと思わなければ、歩いていないはずなのだが、
「今から歩くぞ」
 と思って歩きはじめる人は、リハビリに努めている人は別にして、一人もいないはずである(笑)。
 では、
「歩くぞ」
 という思いが無いから、思いはないのかと言えば、そんなことはない。
 歩くぞとの思いと同時に、歩き始めているから、思いを意識しなかっただけの話なのである。
 歩くぞという思い、もっと歩くぞという思いが、行為と一体になっているのである。
 歩くぞとの思いと歩くという行為とが、分裂する時がある。
 それはどういう時かと言えば、私の経験から言うと、演出家に、舞台の上を
「自然に歩け」
 と言われて、歩くという行為を意識した時である。
 「歩くぞ」と特に思わなくても、自分に言い聞かせ無くても歩けるのに、自意識過剰になって、歩くぞと思って、次に行為する、歩く、という状態になってしまっているのだ。
 こうなると、ぎくしゃくとした不自然な歩き方となってしまって、演出家から、
「普段歩いているように歩けばいいんだよ」
 と怒鳴られて、
「自然に歩くぞ」
 とか
「上手に歩くぞ」
 などと思えば思うほど、さらに悪循環に陥ってしまって、全く歩けなくなるのである。
「さあ、歩くぞ」とか、「自然に歩くぞ」「上手に歩くぞ」という思いを無くせばいいはずなのだ。
 この場合、まるで思わないのとは違う、ということはお分かり頂けると思う。まるで思わないようにすると、歩かなくなるはずだからだ。
 それでは、演出家の指示を無視することになり、仕事を失うことになる(笑)。

■「考え過ぎる、思い過ぎる」のと、「考え無さ過ぎる、思わ無さ過ぎる」のとの中間、「中庸」の意識状態こそが、「非思量」であると、現段階、私は理解しているのである

 繰り返しになるが、だからといって、
「歩くぞと思うのを止めよう」
 と自らに言い聞かせることは、不自然な歩き方を助長することになるのだ。
 自然に歩くというのは、誰でも日常的にやっていることなのだが、人目を意識することで、「平常心」が失われてしまって、思いと身体(行為)とが分裂してしまうのである。
 「非思量」を言い換えれば、「思量」「思う、考える」と「不思量」「思わない、考えない」の中間といっていいのでは、と私などは思っている。
 私の体験から言わせて頂くなら、思っている考えているのではない、かといって、思っていない考えていないのでもない、
「考えているようでいて考えていない、考えていないようでいて考えている」
 そんな意識状態の時にのみ、禅問答が理解できたのである。
 禅問答というのは、頭の片隅に置くようにして日々理解しようと思わないと、未来永劫、理解できないのだが、かといって考えて理解できるものでもないのだ。
 「考え過ぎる、思い過ぎる」のと、「考え無さ過ぎる、思わ無さ過ぎる」のとの中間、
「中庸」 
 の意識状態こそが、「非思量」であると、現段階、私は理解しているのである。
 もちろん、考えてはいけない、と思うことは、考えてないけないと考えていることになるので、注意を要するのだ。
 言い換えれば、
只管打座(しかんたざ)」
 の
「只管」
 である。
 思いと行為とは元々一つのものなのだが、「思い」と「坐る」という行為とが一枚になっている状態こそが、自然な状態であり、坐ることによって悟りを得ようとの思いが消えている状態と言っていい。
「只管打坐」を
「ひたすら坐る」
 と理解する人がいるが、私は
ただ坐る
自然に坐る
 だと理解している。
 坐っているという思いさえ無く坐っている状態のことだが、それはただ単にボーッとしている、ポカンとしているのとは違うのだ。

■「為に」との思いなど無く、「ただ坐る」でいい

 長くなったので、話を端折らせて頂く。
「瓦を磨いて鏡となす」
 の出典の南嶽懐譲と、懐譲の弟子の馬祖道一の禅問答の冒頭にこうある。

南嶽「修行者よ、おまえは何故坐禅をしているのか?(大徳、坐禅して什麼(そも)何をか図る)」
馬祖「仏になる為です(仏と作るを図る)」 
 
 問題は、馬祖が
「仏になる為です」
 と答えたところにある。
「為に」
 が曲者なのだ。
 「○○の為に」という思いがあるということは、結果を期待する思い、言い換えれば「私」があるのだ。
「為に」との思いなど無く、「ただ坐る」でいいのだ。
 乱暴な物言いだが、坐ることを楽しむぐらいの気持ちでいいのである。
 仏と私が別々という発想が前提にあって、仏になる、という思いがあるとすれば、それも問題だ。
 何故なら、もともと私は仏なのだから


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